・エピローグ パン屋と宰相と元勇者 1/2
目覚めると徹夜漬けの仕事が片付いていた。サジタリウスの目が照らす青い夜が終わり、桃色の光が降り注ぐ朝がロベールの前に訪れていた。
重たい頭を抱えて政務机から立ち上がった。
腹時計が今は朝おやつ時であると切なく訴えるので、おみやげのコショウ煎餅に手を伸ばしかけたところで、ロベールは思い出した。首尾よく事が進んでいれば、コムギのパン店にアンコパンが並んでいる頃だ。
そこにロベールのうら若い秘書官が一杯の水をくんでやってきた。ロベールはその水を飲み干すと、彼にいつもの問いをした。
「魔王様は?」
「1時間ほど前にキュルクレイン殿とお出かけになられました」
「クレイン、と……?」
「とんでもない方ですよ。魔王様の寝室に泊まるだなんて、命知らずにもほどがあります……」
さすがのロベールもこれには驚愕した。ドラゴンの隣で寝泊まりする方がまだ安全な場所で、あの男は夜を明かしたという。
「彼はいまだに牢屋で寝泊まりしているような男です。勇敢でなければ勇者などつとまらないということでしょう」
「あの、なぜ牢屋で寝る必要が……?」
「居心地がいいそうです」
昨晩片付けた書類の山を秘書官に渡した。後は彼ら文官たちがいい具合に処理をしてくれる。
「全然わからない……。いい人ですけど、変な人でもありますよ」
「彼にとっては身軽さこそが最大の富なのでしょう」
ロベールは書類の処理を彼に任せると、寂しいお腹を抱えて魔王城を出た。すると目的地にたどり着く前に、城門前の広場にて勇者キュルクレインと鉢合わせになった。
「やあ、疲れた顔をしているな?」
「ええまあ、それなりに。魔王様をお任せしてしまってすみませんね……」
彼の隣には依頼人と思しきイヌヒト族の一行がいた。また辺境まで厄介なモンスターの討伐に行くのだろう。
「なぜだか気が合うみたいなんだ、気にしないでくれ」
「ありがとうございます、心より感謝しております。……それはそうと、アンコパンはありましたか……?」
「ああ、並んでいた。魔王様と店で少しゆっくりしていたら、客が逃げていってしまったけどな」
「営業妨害です」
その魔王の姿はない。きっと城の者に引き渡した後なのだろう。
「3日ほどここを離れるからコムギに挨拶をしてきたんだ」
「そうだったのですか」
「その時、俺からお願いして、ここにキスしてもらった。いいだろう」
その一言にロベールの眠気は吹き飛んだ。キュルクレインは自分の顔を指さすと、ライバル相手に嬉しそうに笑った。
「嫉妬したか?」
「ええ、無性に腹が立ってきましたよ」
「ならお前もしてもらったらいい。じゃ、またな」
キュルクレインは依頼人と並んで広場に留まっていたホロ馬車に乗り込んだ。牢屋で寝泊まりをして、辺境でモンスターを狩る生活はさぞ自由だろうが、とてもまね出来そうにない。
ロベールは遠ざかってゆく馬車の後ろを寝不足に頭を揺らしながら歩き、広場を抜けて、大通りに入って3軒目の店の前で立ち止まった。
増設されたオープンカフェ席で人がくつろいでいる。改装したばかりのあの頃と比べて大変立派なたたずまいとなっていた。
来客も見違えるほどに増えた。分単位で客が店を訪れ、そして幸せそうにパンを抱えて出てゆく。
「はっ!?」
いつまで眺めても飽きない光景だったが、肝心のアンコパンの確保を忘れていた。ロベールは店に駆け込み、店内を見回した。
アンコパンはあった。一つだけ残っていた。ロベールは棚の前に駆け込み、あと一歩で奪われるところだったアンコパンをその手に確保した。
「貴女には恨みはありませんがすみませんね、レディ」
「は、はい……」
同じ魔人族のレディに謝罪すると、ロベールはレジに並んだ。すぐに自分の順番がやってくると、渋い顔をしたリスティスに銀貨を差し出す。
「あのさぁ……アンタの分はちゃんと取り置いてあるからさ、それはあっちのお客さんにあげなよ……」
「なんと……。宰相としての外面を犠牲にする必要はなかったということですか」
「あっ、いらっしゃいませなのです、宰相さま!」
「お邪魔しております、ソフィーさん」
ロベールは女性の前に戻ると丁重に謝罪してアンコパンを手渡した。
「甘い物がお好きなんですね」
「大好きです」
ロベールの隣をレッドドラゴンのレキが素通りした。レキの脚にはパンの入ったバスケットが掴まれていて、レキはくちばしで空のバスケットをくわえると、空いた棚に脚のバスケットを陳列した。
「ギャウ!」
「どうも、森の主殿」
ロベールはソフィーに導かれてパン工房に入った。パン工房の一角ではレモン色の変な物体、ゴールデンバームスライムのレモンさんがポヨンポヨンと跳ねてパンをこねていた。
「あ、おはようございます、ロベールさん!」
コムギ・ブランウィードの姿もあった。仕事に集中していた彼女はこちらに気付くと、打ち粉まみれの手を叩いて駆けてきた。
彼女の裏表ない明るい笑顔がロベールの心の癒しだった。
「おはようございます、私のアンコパンはどちらに?」
「そこ! あ、ちょっと待って!」
取りに行こうとするとコムギに回り込まれた。何かと思い様子を見るも、彼女にこれといった動きはない。コムギは目線を落とし、手足を体の内側に寄せて、何かを迷うように縮こまった。
「なんですか? 早くアンコパンを食べたいのですが?」
「あ、あのね……さっき、勇者様がきてね……。3日は会えないって言うから……その……」
コムギは顔を赤くして恥ずかしそうに身を揺すった。キュルクレインのあの自慢は嘘ではなかったようだ。
「ちょっとだけ、かがんでくれますか……?」
「構いませんが」
ロベールは期待を胸に身を屈ませた。普段見下ろしていた女性と同じ目線の高さまで体を折り曲げると、視線にうろたえる女性がそこにいた。
キュルクレインは『した』のではなく『してもらった』と言っていた。であるならばロベールとしても後者でなければ納得がいかなかった。
「い、いきますよ……?」
「そんな勇ましい顔で言われましても」
「動かないで下さいね!? 狙いがずれますから!」
「動くなと言われましても生きている以上は――」
その時、コムギが動いた。彼女は元より行動力のある女性で、決意さえすれば成し遂げられる人物だった。
コムギはロベールに祝福をくれた。旅立つ勇者キュルクレインに与えたもの同じ、唇への一瞬の祝福を与えてくれた。
「……っっ?!」
ロベールはうろたえた。キュルクレインが言う『ここにキスしてもらった』とは唇のことだった。
「だ、だってっ、だってしょうがないんですっ! 勇者様がどうしてもしてくれって言うから……ロベールさんにもしてあげないとっ、不公平じゃないですかーっ!」
コムギは二歩も三歩も後ずさり、耳まで真っ赤にして言い訳をした。そんな彼女の前にロベールが踏み出す。コムギはそれに逃げ出すが、相手は彼女を逃がさなかった。
「ひ、ひぇっ!? 待って下さいっ、ぴぃぃーっっ?!」
衝動任せにロベールはコムギを胸の中に包み込んだ。それから驚く彼女にさらなる攻勢に出る。
「すみません、理性が吹っ飛びました」
「そんなっっ、わぁぁーっっ?!!」
今度は自分から情熱的にコムギの唇を奪った。愛の確認のための挨拶ではなく、相手の肉感を求めての衝動的な行為だった。自分が満足するまでロベールはコムギを離さなかった。
「う……あう……うぁぁぁ…………」
「貴女が悪いのですよ、貴女が、私を嫉妬させるから」
彼はやさしくコムギの薄水色の髪を撫でた。雑草のようなたくましさを持ちながらも、小花のように華やかで、かつ庇護欲を誘う不思議な女性だった。
「ご……ごめんなさい……」
放心するコムギをそのままにしてロベールはアンコパンを取りに行き、すぐにそれを口に入れた。
あまりの恥ずかしさに視線を上げられなくなったコムギを眺めながらのアンコパンは至高の上をゆく天上の味わいだった。
「やはりここの窯で焼くと違いますね。コムギさんも少しどうぞ」
「はい……」
差し出すとコムギは小さくパンをかじった。そんな小鳥のような姿がいとおしくて、ロベールは再び彼女の唇を蹂躙していた。
「あ、甘いです……」
「ええ、気がおかしくなってしまいそうですね……」
普段あれだけ明るく活発な彼女が内気な少女のような顔をすると、ますますいとおしさが胸にこみ上げてきた。
「コムギさん」
「は、はい……な、なに……?」
「あの砂時計は……パン焼き窯の砂時計、ですか?」
「へ…………? あっ、あああああーーーっっ?!!」
ロベールが指さしたその砂時計はパンの焼成時間を計るためのものだった。コムギは飛び上がり、ミトンに飛び付いて、パン焼き窯から焦げ色の付いたバゲットを取り出した。




