・語り部:導きの女神と徘徊老人 1/2
宰相ロベールは旅行先から帰るなり政務室にこもった。書類仕事は宿の部屋でくつろぎながらこなすことができても、対面を必要とする業務には限界があった。
彼が城に戻ると政務室の前に長蛇の列が生まれた。文官、商人、外交官、諜報員、芸術家。多くの者が謁見を求めて城に駆け込んできた。
ただ一言『疲れているから明日からにしてくれ』と言えば片付くことだというのに、ロベールは拒むことなく来客を受け入れた。
応対が終わったのは夜の遅くだった。さすがのロベールも疲れ果て、政務イスの背もたれに身を深く預けて放心していた。
自分自身へのおみやげである温泉饅頭を口にすると少しずつ頭の回転が戻ってきたものの、今は指一本すら動かすのもおっくうだった。
そんな薄暗い政務室にノックの音が響いた。
「イシュティです、ただいま帰りました」
「ええ、どうぞ中へ」
ロベールは背筋を伸ばし、気品ある魔界の宰相として部下を迎えた。相手は燃えるように赤い髪をした夢魔族の女だった。
彼女こそがユーパトリウム反乱軍の首謀者ジェイスン・コーンウォールの枕元に立った導きの女神だ。
彼女は政務机の前に立つと、ロベールは一通りの報告を済ませた。
「貴方の献身は多くの民の救いとなったでしょう。ご苦労様です、休暇に入って下さい」
今や反乱がユーパトリウム全土に広がっていた。きっかけはマナ鉱石がらみのスキャンダルだったが、もはやそんなものは一因に過ぎなかった。
古い国ほど多くの歪みを抱えているもので、搾取や抑圧をされてきた者たちがここぞとばかりに決起した。こうなってしまったらもう止まらない。
「お待ち下さい、宰相様。これで終わり、ですか……?」
「はい、今回の諜報作戦はこれで終わりです。もはやこれ以上我々が導く必要はないでしょう」
「宰相様、私はもう少し干渉するべきだと思います。ジェイスン様が望みを果たされるまで支援するべきかと」
「いえ、魔王様のご判断とはいえ我々は干渉しすぎました。干渉に気付かれる前に手を引くべきでしょう」
諜報員イシュティは納得しなかった。彼女はさらに不服を訴えたが、ロベールの耳には論理的な主張には感じられなかった。
「貴女は今冷静さを欠いています。休暇を取るべきです」
「違います! 私はただジェイスン様を支えたいのです!」
「私情は捨てなさい」
ときおりあることだった。ターゲットに共感しすぎてそこから抜け出せなくなり、結果として裏切ったり、任務を放棄する者もいた。
「私はジェイスン様の導きの星なのです」
「いえ、それは我々が与えただけの、ただの役目です」
「そうであっても彼からすれば私は必要な存在なのです!!」
「イシュティ……貴女は、まさか……」
よくあるケースが恋愛だ。ターゲットに恋愛感情を持ってしまった諜報員が制御不能になる。
「彼のこれまでの人生は絶望続きの酷いものでした……。父の刑死。母の病死。売春婦に堕ちた姉に一族の復讐を強いられた少年時代……。一族の恨みを胸に宿したジェイスン様は、今日まで堪え忍びながら生きてきたのです」
そこにロベールが導きの女神を差し向けた。
「私が突然消えたらジェイスン様はおかしくなってしまわれます。深い絶望が彼を苦しめるでしょう」
「それは……。こちらとしても少し困りますね」
ロベールは考えた。宰相としてではなくただ一人の男として、この話をどう解決させるべきなのかと。
宰相の視点から見れば結論は変わらない。イシュティをこの作戦から外し、ヒューマン族の女をジェイスン元子爵令息にあてがうべきだ。
「どうしても貴女自身が彼を支えたいとおっしゃるならば、好きにされるとよろしいでしょう」
「え……い、いいのですか……?」
いいわけがない。彼女の正体が知れれば外交問題になる。
「優秀な諜報員を失うのは痛手ですが、個人的に彼を支えたいというならば止めはしませんよ。勝手に出奔されるくらいなら、十分な退職金をお支払いいたしましょう」
彼の者は魔界政府でかつては働いていたが既に辞職している。我々は一切関係がない。……言い訳としては苦しいところだ。
「ああ、宰相様……」
「どうするかは貴女次第です。役目を捨ててまでして、敵の土地で敵の男と幸せになりたいとおっしゃるならば、好きにされるとよろしいでしょう」
ロベールは凝り固まった肩を鳴らし、出しっぱなしで皮が乾いてしまった温泉饅頭を口にした。勧めてもイシュティには遠慮されてしまった。美味しいのに。
「退職いたします。これからは、ヒューマンの女に化けて、彼を陰から支えることにします」
「そういった人生も悪くないのかもしれませんね……。なんというか、非常にドラマチックです」
ロベールは退職金の支給を命じる書類を一筆したためると、彼女にサインをさせた。
「ありがとうございます。元より影でしたが、これからはより深い陰からロベール様をお支えいたします……」
「ジェイスン殿とご自分の幸せを優先されて下さい。貴方の貢献を我々は忘れません」
イシュティはロベールに感謝して政務室を出て行った。私情に流されてまた余計な仕事を増やしてしまったが、彼女の幸福を願わずにはいられなかった。
以前の自分だったら考えもしないことだったが、コムギとキュルクレインとより親しくなったことで考え方が変わったのだろうとロベールは思った。
「ああ、そういえば、あの愚かな王子は……」
しばらく気にも止めなかったが、コルネル王子はその後どうなったのだろうかと思い、ロベールは報告書の束を掘り返した。見つけた報告書によると――
「フ……因果応報というやつですか」
コルネル王子の面倒を見ていた辺境の男爵は、領地の安全と引き替えに反乱軍に王子の身柄を引き渡したようだ。
その反乱軍はロベールが焚き付けたジェイスン元子爵令息とは別の、脱走兵と農民を主体とする者たちで、非常に暴力的な集団のようだ。
王子は全身の骨が砕けているというのに運び出され、反乱軍の根城に連れ去られた模様。その後は行方不明とあった。
「彼の罪はこの程度で拭えるものではありませんが……なんとも恐ろしい」
ちょっとした運命のボタンのかけ違いで、コムギがコルネル王子の妻となっていた可能性もあった。
そしてこの反乱はロベールが干渉せずともいずれ起きたはずのものだ。つまり別の未来では、コムギが怒れる民衆に襲われる可能性もあった。




