・語り部:アケロン川を渡りかけた公爵令嬢の小さな幸せ 1/2
その日、魔王城でちょっとした騒動があった。客人アムリスが荷運び中に倒れているところを城の者が発見し、ただちに医務室へ担ぎ込まれた。
意識が戻ったのはその翌日の朝のことで、アムリスは自分が血を吐いてしまったことくらいしか覚えていなかった。
彼女は人生の終わりが近付いていることを悟った。隣からいびきのする医務室で衛生兵から詳しい話を聞いて、自業自得でしかない運命をただ受け入れた。
それからほどなくすると医者が現れた。医者はアムリスのために特別な薬を調合していたと言って、彼女に怪しい黒い丸薬を見せた。
「アムリス殿、貴女はいつ亡くなってもおかしくない状態です」
「ええ、よくわかっておりますわ……。せっかくお友達と呼べるような方がたくさんできたというのに……残念……」
「いえ我々はまだ諦めておりませんぞ」
その丸薬は医者が寝ずに手配した薬だった。城の者がアムリスのために材料を求めて街や村を駆けずり回り、必死で間に合わせた善意の結晶だった。
「この薬は奇跡の力を大幅に抑制する効果を持っています。これを飲めば理論上は、しばらくの間貴女は死を免れることが出来るでしょう」
「わかりました。わたくしはそれを飲めばよろしいのですね」
今に始まったやり取りではなかった。アムリスはこれまでも、この医者が説明する薬をためらうことなく飲んできた。
「これは貴女を聖女からただの女に変える薬です」
「まあ、それは素晴らしいお薬です」
「どのような副作用が出るかもわかりません。最悪は命を失うことにもなるでしょう」
「それは困りますわ。わたくしはもっと生きて、お姉様や魔王様のための実験体にならなければなりませんのに」
医者は丸薬を渡すのを迷った。どのような副作用がこの悟った女性を苦しめるかもわからなかった。
しかしアムリスはためらう医者から丸薬を奪い取った。意外にも自由に動く身体に驚きながらも、彼女は合計5粒の丸薬を一気に飲み込んだ。
「神よ、どうかお慈悲を……」
「ふふ……わたくしに慈悲など必要ございませんわ」
アムリスは衛生兵から水をもらうと飲み干してベッドへと横たわった。
「ふぉふぉふぉ、さすがはムギちゃんの妹さんじゃのぅ……」
声に驚いてアムリスはまた身を起こしていた。カーテンの向こうに横たわっている相手が思いもしない相手だったからだ。
「お目覚めになられましたか、魔王様」
「うむ、寝過ごしてしもうたわい……」
「ヨ、ヨブ様……!?」
カーテンの向こうから魔王ヨブが現れてアムリスのベッドサイドにやってきた。
「はろー、アムリスちゃん、元気しとったかのぅ?」
「ヨブ様……? なぜ貴方様がここに……?」
「ほっほっほっ、アムリスちゃんが心配でここで寝てしまったんじゃよ、ワシ」
今日の魔王様の喋りは闊達だった。空が晴れたり曇ったりするのと同じように、魔王の頭の霧は天気のように変化する。アムリスも城の者なのでよく理解していた。
「貴女が今生きているのは魔王様のお慈悲ですよ」
「これっ、余計なことを言うでないっ!」
「昨晩はずっと貴女の隣に寄り添い、その強大なお力で、治癒の魔法をかけ続けて下さったのです」
「ヨブ様が、わたくしのために……!?」
アムリスの目元に大粒の涙が浮かんだ。恐れ多いお慈悲に感激と罪悪感が入り交じった。自分は魔王のための実験体なのに、その魔王に無理をさせては本末転倒だった。
「あまつさえ自分が薬の治験体になると言い出しました」
「当たり前じゃっ! 若いもん犠牲にしてまでわしゃ生き残りとぅないんじゃぁぁっ!」
「だから、クランケになりうるのは、アムリス嬢だけです。薬程度で貴方の力を抑制できたら我々医者も宰相も苦労していませんよ」
「ほっほっほっ、ワシ今でも最強じゃからのぅ。頭の接触が悪い日は世話をかけるのぅ……」
「ふふふ……っ」
ひょうきんなお爺さんにアムリスは笑いがこみ上げてきた。心からの感謝を胸に、この心やさしい魔王の力にもっとなりたいと思った。
「薬、苦かったじゃろ……?」
「はい、とっても」
「可哀想にのぅ……。こやつが作る薬は苦い! 甘かった試しがない! ほれっ、こいつはワシのとっておきじゃっ!」
魔王ヨブは袋からクリームパンを取り出して半分にちぎるとアムリスに差し出した。医者が少し困った顔をしてうなずくので、アムリスはありがたく受け取ることにした。
「ムギちゃんの曜日限定のやつをいつでも食べれるように、時間の流れを止めておいたやつじゃっ、ほれお食べ」
「ありがとうございます……ヨブ……お爺さん……」
「ほっほっほっ、死にそうなときはムギちゃんのパンが一番じゃ」
厳格な家庭に生まれたアムリスには甘えられる祖父などいなかった。生まれたその時から公爵令嬢であった彼女に、こんな砕けたやさしさをくれる人などなかった。
アムリスは姉が作った甘くて幸せなクリームパンをヨブお爺さんと一緒に食べた。
「安心したらまた頭が霞んできおったわい……。病室吹っ飛ばす前にワシ帰るのー」
「命をお救い下さりありがとうございます。今度はわたくしがお姉様のパンをお持ちします」
「ほっほっほっ、マーサのパンは最高じゃからなぁ……。んー……マーサ……? マーサは、どこじゃ……? おーい、マーサーッ、どこ行ったんじゃぁーっ!?」
魔王ヨブが揮発性の記憶力に頭をかしげて医務室を出て行くと、入れ替わりで一人の男が現れた。男は息を切らし、ベッドで身を起こしていたアムリスに安堵の声を上げた。
「ガルムレック様……!?」
ガルムレックはよほど急いできたのか息を乱すばかりでしゃべらなかった。ガルムレックは遠征に出ていたはずだった。
「兵士長、酸欠状態は健康に悪い。走るならばジョギング程度を奨めましょう」
「バカ言ってんじゃねぇ……っ、ぜぇ、ぜぇ……。おい、アムリス……生きてんのかよ、お前よぉ……?」
「はい、皆様のお慈悲によりなんとか。実は――」
医者は衛生兵を残して寝室を去り、衛生兵も隅っこに引っ込んだ。無粋ではあるが、実験薬の経過を見守らなければならなかった。




