・語り部:聖女のパンを食べてからどうもおかしい
既に違和感はあった。屈託のない笑顔で差し出されるあのパンを食べれば食べるほどに、疲労が飛んでゆくような感覚があった。
けれどそれは疲労の回復ではなかった。疲労をねじ伏せるほどに身体が強くなったがために、疲れが取れたと勘違いをしたせいだった。
だがテラスを飛び降り、大地を蹴って捕り物劇に加わろうとするなり、キュルクレインは気付いた。
走るために蹴り出した脚は軽々と己の全身を前へと運んだ。身体が軽い。異常なほどに軽い身体に驚きながらも彼は次の脚を出す。
人はこんなに速く走れるものなのか。まるで強弓から放たれた矢のようにキュルクレインは跳ねるように川辺の道を飛んだ。
そう、走ると表現するよりも飛ぶ、跳ねると表現した方が正しいほどに、一歩一歩が彼を遙か前方に送り届けた。
「俺がやつらを止める! 捕縛は任せたぞ、兵隊さん!」
「なっ、何……!? んなぁぁぁっっ?!!」
「な、なんだアイツはっっ!?」
追撃者に併走し、魔王軍の正規の憲兵であることを確認すると、キュルクレインはぶっちぎった。前方20メートルほど先を走る集団を追いかけ、二度と街角を折れたところでついにたどり着いた。
「な、なんだお前っっ!?」
「止まれっ、止まらないと痛い思いをするぞ!」
「邪魔すんなあっちいけっ!!」
彼らは盗人だった。ポケットの隙間から金のネックレスがはみ出していた。
彼らは同族ヒューマンの悪党だった。すぐさま剣が抜かれ、刃が併走するキュルクレインの首を狙った。
「うわああああっっ?!!」
剣を抜くまでもない。キュルクレインは殺人も辞さない同族の袖を掴むと、その男を左手にある川へと投げ飛ばした。
「野郎舐めやがってっ!! お前ら先に行けっ、コイツは俺様が潰す!!」
腕に自身があるのか、体格のいい男がバッグを正面の仲間に投げて立ち止まった。
「逃がすわけがないだろう」
キュルクレインはそのバッグをインターセプトした。そしてその重いバッグを、仲間を見捨てて逃げ去ろうとする愚か者へと投げ付けた。
「テ、テメェ!!」
一人に当たるとその者が倒れ、前を行く仲間の背中にのしかかった。続いて引き起こされたのは酷い擦り傷がともなう痛々しい転倒だった。
「済まない、加減を間違えた」
「この野郎よくも仲間を!! ぶっ殺してやる!!」
「困ったな……」
今は手加減できそうにない。恐ろしいほどの肉体の充実がキュルクレインの全身を満たしていた。
剣なんて使った日には確実に相手を殺めてしまう。
「ほぅ、剣を抜かねぇのか。俺様はこれでも昔は、とある国でチャンプと呼ばれていた男だぜ。本気でコイツで勝負かける気かい、お兄ちゃん?」
「眉唾だな。これが栄誉あるチャンプのすることか?」
「てめー死んだぜ、お兄ちゃんよぉっっ!!」
盗人の言葉は本当だった。彼は本当にチャンプだった。ただし十年前にチャンプの座から陥落して、流れに流れてこの地にやってきた流れ者だった。
先に動いたのは追っ手を抱えている元チャンプだった。かつてはモンスターの首をへし折ったとも噂されたジャブがキュルクレインを狙った。
結果、チャンプの拳が空振りした。更なるラッシュがキュルクレインを襲ったが、チャンプの拳がキュルクレインに触れることはなかった。
「次の魔王に抜擢されてしまうわけだ……。まさか彼女の力がこれほどまでだったとは……」
「おっさんを舐めんじゃねぇぞ小僧ォォォッッ――ヌッ、ヌオァァァァッッ?!!」
キュルクレインはチャンプの襟首を掴むと、ドーピングされたその身体能力をもって投げた。殺さずに生け捕りにするために出された結論は[アケロン川にチャンプを投げ飛ばす]だった。
まるで石ころでも投げるようにチャンプは高々と投げ飛ばされると、高い水しぶきを上げて川へと落ちた。
「コムギ・ブランウィード……いくらなんても、これはやり過ぎだ……」
キュルクレインは悪党の足止めに成功すると、後のことを憲兵隊に任せてカフェへと戻っていった。
神にも等しい奇跡の力を持つ魔王コムギの元に。
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