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灰喰らいの王Ⅰ燃え残った名前  作者: k.vaelor


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第2話「名前を記す女」

女は、動かなかった。


剣の柄に手をかけたレインを見ても、逃げようとはしない。驚いた素振りすら見せない。ただ、濡れた前髪の下から、値踏みするような目でこちらを見つめているだけだった。


「答えて。今、灰を——死者の灰を、口にしたの?」


声は低く、静かだった。恐怖の色はない。確認するような、乾いた響き。


レインは答えなかった。答える理由がない。剣を鞘から抜きかけたとき、遠くで犬の声がした。一匹ではない。複数の足音と、金属が擦れる音が、雨の向こうから近づいてくる。


女の顔から、初めて余裕が消えた。


「——まずい」


その呟きに被せるように、篝火の明かりが処刑場の門の方角で揺れた。兵士の声が響く。


「そこの女、止まれ!」


レインは、瞬時に理解した。狙われているのは自分ではない。女の方だ。


普段のレインなら、関わらない。荒野で生きるための一番の教訓は、他人の問題に首を突っ込まないことだ。だが、この女は今、レインが灰を食べる瞬間を見ている。生かして帰せば、いずれ厄介事になる。かといって、ここで見捨てれば——この女は口を封じられて死ぬだろう。


考える時間は、ほとんどなかった。


「こっちだ」


自分でも驚くほど短く、そう言って、レインは処刑場の裏手へ走り出した。女が一瞬迷ってから、すぐに追ってきたのが足音でわかった。


雨に濡れた石畳は滑りやすい。犬の鳴き声が近づいてくる。松明の炎が濁った赤に見えるのは、煙のせいか、それとも自分の息が上がっているせいか、レインにも判別がつかなかった。


裏路地に入ったところで、女の足がもつれた。転びかけたところを、レインは腕を摑んで支えた。冷たい手だった。震えている——寒さのためか、恐怖のためか、区別がつかない。


「あと少しだ」


そう言いながら、記憶にある荒野への抜け道を辿る。五年、この土地の周辺を這うように生きてきた。兵士たちの知らない道なら、いくつも知っている。


追手の声が遠ざかっていく。犬の鳴き声も、やがて雨の音に紛れて消えていった。


荒れ果てた廃教会の軒下に着いたとき、二人とも息が上がっていた。女は壁にもたれ、しばらく肩で息をしていたが、やがて顔を上げてレインを見た。


「助けてくれた礼は言う。——でも、聞いたことには答えてもらう」


「答える義理はない」


「あるわ」


女は濡れた外套の内側から、小さな革の手帳を取り出した。開こうとはしない。ただ握りしめて、レインに見せるように掲げるだけだった。


「わたしはこれと同じものを、何年も研究する場所にいた。灰印術。死者の灰を取り込む禁術。普通の人間が触れれば、体の中から腐って死ぬ」


「……」


「あなたは死ななかった。それどころか、剣士の力を使いこなした。それがどういうことか、わかってる?」


レインは黙っていた。雨が軒の端から滴り落ちる音だけが、二人の間を埋めていた。


「わたしの名前はセラ。セラ・アイン」


女は——セラは、フードを下ろした。濡れた黒髪が頬に張りついている。年上に見えるが、まだ若い顔だった。


「聖王国から逃げてきた。あなたと同じで、追われる理由がある」


レインは答えなかった。名乗る気はなかった。だが、セラは気にする様子もなく続けた。


「取引をしましょう。わたしは灰印術について、あなたより詳しい。何が起きているか、何を失っているか、教えてあげられる」


「その代わりに?」


「わたしを、聖王国の手が届かない場所まで連れて行って。それだけ」


レインは、セラの目を見た。噓をついている目ではない。だが、すべてを話している目でもなかった。


沈黙の後、レインは短く言った。


「灰の辺境まで。それだけだ」


セラは小さく頷いた。それから、懐からもう一冊、別の帳面を取り出した。表紙は擦り切れ、雨に濡れてふやけている。


「これは、あなたのために使う」


「なんだ、それは」


「あなたが忘れたことを、書き留めておくためのもの」


レインは何も言わなかった。だが、雨の冷たさとは違う何かが、胸の奥を通り過ぎていくのを感じていた。名前も知らない女に、こうも容易く踏み込まれることが、不快なはずだった。なのに——不思議と、その手を払いのける気にはなれなかった。


遠くでまた犬が吠えた。二人は、まだ夜の明けない荒野へと足を向けた。

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