第1話「死者の灰」
プロローグ「灰の雨」
人は、二度死ぬ。
一度目は、命が尽きたとき。
二度目は——この世界で、灰になるときだ。
燃え尽きた肉は灰となり、風に攫われて空へ還る。名前も、記憶も、誰かに捧げた祈りさえも、灰と一緒に消えてなくなる。
誰もが、そう信じていた。
——あの日までは。
少年は、燃え盛る村の中を歩いていた。
焦げた肉の臭いが、鼻の奥に張りついて離れない。梁が焼け落ちる音。子供の泣き声。誰かが誰かの名を呼ぶ声。それらすべてが、炎の轟音に飲み込まれて、やがて聞こえなくなっていく。
熱は、痛みより先に来た。頬を炙る風が、まるで生きたもののように、少年の周りを渦巻いていた。
「レイン……逃げなさい」
母の声だった。
震えているのに、はっきりとした声だった。少年は、その声のする方へ振り返った。
だが、間に合わなかった。
炎を背にした人影が、剣を振るう。
赤い飛沫が舞い上がり、宙で灰へと変わって、風に溶けていった。まるで、そうなることが、最初から決まっていたかのように。
少年は、叫ぼうとした。
だが、喉から出たのは、声にならない震えだけだった。
覚えているのは、たった三つだけだ。
黒い甲冑。
灰の紋様が刻まれた、胸当て。
そして——炎の照り返しの中で、こちらを一瞥した、男の瞳。
感情の色の、何一つない瞳だった。
——必ず、殺す。
声にならないまま、少年の中に、それだけが焼きついた。
その日から、少年は灰を喰らい始めた。
死者の力を、我が身に宿すために。
いつか、あの瞳をした男に、剣を届かせるために。
——だが、少年はまだ知らない。
灰を喰らうたびに、少しずつ失われていくのが、敵の力などではなく——他ならぬ、自分自身の記憶だということを。
母の声も、あの日の熱も、いつか、灰と一緒に消えていく日が来ることを。
このときの少年は、まだ、何も知らなかった。
第1話「死者の灰」
雨が降っていた。
音のない雨だった。地面を叩く音も、屋根を伝う音もしない。ただ空気そのものが湿って重くなるような、静かな雨だ。レイン・クロウはその雨の中、処刑場の柵の外に立っていた。
吊るされた男の身体は、もう三日もそこにあった。
「百人斬り」と呼ばれた剣士だという。真偽は知らない。名前も知らない。ただ、王国の兵士たちが縄を解くまで待てば、遺体は決められた通りに焼かれる。灰は決められた通りに、灰捨て場の穴へ捨てられる。
レインが欲しいのは、その灰だった。
夜になるのを待った。番の兵士が交代する隙間、篝火の油が切れかけて光が弱くなる瞬間——そういう「隙」を見つけるのは得意だった。五年間、荒野で生き延びるために覚えた技術のひとつだ。
灰捨て場は思ったより浅い穴だった。まだ温かい灰に指を入れると、湿った雨と混ざって黒い泥のようになっている。レインは布の袋にそれをすくい入れながら、自分の呼吸の音だけを聞いていた。
これから何が起きるか、もう何度も経験している。それでも慣れることはない。
袋を懐に入れ、柵を越えたところで、臭いに気づいた。
腐った肉と、錆びた鉄の臭い。
振り返るより先に、体が横に跳んでいた。
骨と皮膚が奇妙に融合した何かが、闇の中から腕を振り下ろしていた。骨喰い——荒野の外れに湧く化け物だ。人の骨を喰らって育ち、人の形を真似るようになる。目はない。かわりに、顎の裏側に無数の小さな穴が開いていて、そこから空気の振動を読んでいるのだと、ガドという男が以前言っていた。今のレインには関係のない知識だった。ただ、目の前のそれを殺さなければ、自分が殺される。
一撃をかわす。二撃目は肩をかすった。熱さより先に、粘つく感触が布に染みてくるのを感じた。
剣は持っている。だが、荒野の剣士に教わった程度の型では、この化け物の間合いに入ることすらできない。
——足りない。
懐の袋を握った。迷いは、あってもなくても同じだった。もう何度もやったことだ。
灰を口に含む。
苦い。焼けた骨の味と、雨水の味が混じって、喉の奥にざらついた感触を残す。飲み下した瞬間、頭の中で何かが弾けた。
流れ込んでくる。
知らない手の記憶。剣の柄を握る感触。硬く、皮が厚くなった指。何十人分もの悲鳴——自分が上げたものではない、自分が浴びせた側の悲鳴。ふと過ぎる、誰かの顔。愛したのだろう女の顔。それから——首に縄がかかる感触。息が止まる直前の、真っ白になる意識。
レインの意識は、その全部を一瞬で浴びて、そして押し流された。
気づいたときには、体が勝手に動いていた。
剣を握る手が、自分のものではないくらい正確だった。骨喰いの一撃を半身でかわし、返す刀でその顎の下——穴の集まった急所を正確に切り裂いていた。化け物が甲高い音を立てて痙攣し、崩れ落ちる。
雨の中に、レインだけが立っていた。
肩の傷が痛む。荒い息をつきながら、剣を握っていた手の力を抜くと、それはただの自分の手に戻った。震えている。
——終わった。
そう思った瞬間、頭の奥で何かが静かに欠けた。
痛みはない。音もない。ただ、何かが「なくなった」という感覚だけがある。
レインは無意識に、そのことに気づいていた。何が消えたのか確かめるのが怖くて、しばらくその場に立ち尽くした。
母の顔を思い浮かべる。
——見える。ちゃんと見える。
母の声を思い浮かべる。
——聞こえる。あの少し掠れた声も、ちゃんと。
では、何が消えたのか。
記憶をひとつずつ辿るうちに、レインは気づいた。
母がいつも作ってくれたスープ。冬になると必ず出てきた、あの温かいスープの——味が、思い出せない。
何度作られたか覚えている。湯気の匂いも覚えている。母が鍋をかき混ぜる音も覚えている。だが、口に入れたときの味だけが、白く塗りつぶされたように、どうしても出てこない。
レインはその場に膝をついた。悲しみよりも先に、奇妙な冷たさが胸の中を通り過ぎた。
これで、いくつ目だろう。
数えるのをやめてから、もう長い。
雨は降り続いていた。骨喰いの死骸から、灰と同じ臭いが立ち上っている。レインはゆっくり立ち上がり、剣を鞘に収めた。荒野へ戻る道はまだ長い。
そのとき、処刑場の陰から声がした。
「あなた、今……死者を食べたの?」
女の声だった。濡れた黒い外套を纏い、フードの下から鋭い目がレインを見ていた。
レインは何も答えず、ただ剣の柄に手をかけた。




