第3話「記憶の代価」
夜明けの荒野は、灰色だった。
雨は止んでいたが、空はまだ重く垂れ込め、地面は泥でぬかるんでいる。レインとセラは、街道を外れた獣道を歩いていた。追手の気配はない。それでも、油断はできなかった。
セラは歩きながら、何度もレインの横顔を盗み見ていた。レインはそれに気づいていたが、何も言わなかった。
「昨夜のこと、もう少し詳しく聞きたい」
セラが口を開いたのは、太陽が雲の向こうでようやく白く滲み始めた頃だった。
「灰を口にしてから、何を感じた?」
「……力が流れ込んできた」
「力、だけ?」
レインは足を止めた。セラの目が、こちらの反応を注意深く読み取ろうとしているのがわかる。研究者の目だ、と思った。獲物を観察するような、乾いた眼差し。
「記憶も、流れてきた」
「誰の記憶?」
「灰にした人間の」
セラは頷き、懐の帳面を取り出した。ページはすでに細かい文字で埋まっている。レインの知らない文字も混じっていた。
「灰印術の記録では、能力だけでなく、宿主だった人間の人格の断片が流れ込むとされている。剣士なら剣技だけでなく、その剣士が生きた瞬間の感情や記憶まで」
「知ってどうする」
「あなたが、それにどう耐えているのか知りたいの」
レインは黙って歩き出した。セラは追いついてきて、隣に並んだ。
「普通の人間なら、他人の人格が流れ込んだ時点で、自分を保てなくなる。精神が押し流されて、二度と戻らない。——なのに、あなたは戻ってきた。何度も」
「戻ってきているように、見えるだけかもしれない」
その言葉が、思いのほか自分の喉から出てきたことに、レイン自身が驚いた。セラも足を止め、こちらを見た。
「どういう意味?」
レインは答えなかった。答えたくなかった、というより、うまく言葉にできなかった。ただ、昨夜のスープの味のことを思い出していた。母の顔は覚えている。声も覚えている。だが、味だけが消えている。それを「戻ってきている」と呼べるのかどうか、レイン自身にもわからなかった。
セラはしばらく黙って、それからゆっくりと言った。
「一つ、確かめさせて」
「何を」
「五年前のことを、覚えてる? あなたの村が焼かれた日」
レインの肩が、わずかに強張った。
「覚えている」
「何をどこまで、細かく覚えてる?」
「……」
「例えば——母親の顔は?」
「覚えている」
「声は?」
「覚えている」
セラは、まるで手帳に何かを書き込むような、静かな声で続けた。
「じゃあ、母親が最後にあなたに言った言葉は?」
レインは、口を開こうとして——止まった。
思い出そうとする。母の顔が浮かぶ。声も、はっきりと再生できる。だが、その声が発した「言葉」だけが、どこにもない。あるはずの場所が、ただの空白になっている。
冷たいものが、背筋を這い上がった。
「……覚えていない」
声が、自分でも驚くほど小さく出た。
セラは責めるような目はしなかった。ただ、静かに帳面に何かを書き込んでいる。その仕草に、レインは奇妙な苛立ちを覚えた。
「何を書いている」
「記録よ。あなたが今、何を失っていて、何を失っていないか」
「必要ない」
「必要よ」
セラの声には、初めて強い響きが混じった。
「あなたが自分で気づかないうちに失っているものが、これからもっと増える。誰かが記録しておかなければ、あなたは自分が何を失ったのかさえ、わからなくなる」
「俺は何も失っていない」
言った瞬間、その言葉が嘘だと、自分自身が一番よくわかっていた。
セラは何も言い返さなかった。ただ、レインの目をまっすぐ見て、静かにこう言った。
「否定するのは自由よ。でも、いつか——自分の名前を思い出せなくなったとき、それでも『何も失っていない』と言えるの?」
風が吹いた。荒野の乾いた土と、遠くの枯れ草の匂いが混じって流れてくる。レインは何も言い返せなかった。
しばらくの沈黙のあと、セラは帳面を懐にしまい、また歩き出した。
「行きましょう。灰の辺境まで、まだ距離がある」
レインはその背中を見ながら、しばらく動けなかった。母の言葉。あったはずの、そこにあるべき何か。それが消えている感覚は、傷口に似ていた。血は出ていない。だが、確かに何かが抉り取られている。埋まらない窪みだけが、そこに残っている。
やがてレインも歩き出した。二人の足跡だけが、乾き始めた泥の上に残っていった。




