勇者めし、離乳食未満
勇者が嵐のように去った後、長老の間にはいまだ鋭い緊張が残されていた。
床に散らばった赤く燃えるような勇者のの髪の毛。エルフたちはそれを一本一本地面に跪いて拾い集め、厳重な封印が施された箱へと収めていく。その光景は、さながら神聖な儀式のようでもあった。
「共連れはもう出たか?」
部屋の奥、一段高い場所から長老の声が響く。
「はい、勇者様を追いかけましてございます」
長老は、深く刻まれた眉間の皺を深めた。
「小隊を準備させい。翌朝、一日分以上、離れた距離から勇者様を追跡するように。⋯⋯よいか、盟約に従い、百歳以下のエルフのみで構成するのだ。人族の街での情報収集も考慮し、五十歳以下の若い者をいれるのを忘れるでないぞ」
エルフたちが静かに頷き、それぞれの役割へと散っていく。
長老は医療部隊を指揮していたエルフへと視線を向けた。
「今代の勇者の状況を、改めて共有せよ。皆のものも聞け」
医術責任者が一歩前に出て、冷静な口調で説明を始めた。
「勇者様の肉体年齢は、人族に換算しておよそ12齢。骨格の成長が安定するのを待ってから筋骨格の強化訓練を行う予定でした。ゆえに、現時点では補強未実施となっております」
長老は視線で続きをうながす
「脳神経は、ひと巡り前に復元できておりました。現在は神経と筋肉の接続のため細動運動と圧縮学習がなされていたのですが⋯⋯」
老賢者の瞳が細くなる。
「古の成人としての知識と、当世の4歳児の知識が混在しておるということか?」
「左様にございます。先ほどこの部屋を辞去された際の振る舞いを見るに、反抗期、あるいはそれ以上に制御しがたい情緒不安定状態にあるかと」
別の長老が呟く。
「乳幼児反抗期かと思うたわい⋯⋯」
長老たちは首を振る。
「なにぶん圧縮学習が途中で終了した前例がなく、当世言葉も喋られていましたので、さすがにいやいや期は脱しているのではないかと――」
長老たちは互いに顔を見合わせ、重いため息をついた。
☆☆☆
「おい、アルギレ! この植物はなんだ? なんで泡が出ているんだ!? どうして?」
先端からぶくぶくと泡立つ腰ほどもある巨大つくしのような植物を、指でつんつんと突つきながら、アンパトは全身で興奮を表現していた。自分の知識の外側にあるもの、それが何であるかを知りたいという純粋な欲求。それは、まさしく「なぜなぜ期」の子供そのものだった。
「それは『フサロフェロン』ですね」
アルギレが膝を折り、植物を指し示す。
「地中の炭酸カルシウムを分解し、それをゼラチン質の膜に閉じ込めておるのです。アンパト様、そっと息を吹きかけてみてください」
指示通りに「ふーっ」と息を吹きかけると、泡は軽やかに茎を離れ、たんぽぽの綿毛のようにふわふわと空中へ舞い上がった。
「おおっ!」
「この植物は周囲の二酸化炭素濃度が高くなると、こうして泡を飛ばすのです。この大森林では珍しいですが、荒れ地に行けば至る所に生えており、旅人には非常に有益な植物となります」
アルギレは手慣れた手つきで腰のポシェットから尖った管を取り出すと、フサロフェロンの茎に深々と突き刺した。すると、瑞々しい水が管を通って滴り落ちる。
「このように、飲水を確保できるのです。今日はこのあたりで野営にしましょう。そろそろ日も暮れます」
管に水筒をつなげたアルギレは、手慣れた様子でキャンプ準備を進める。落ち枝を集め、周りの苔をどけ、火床をつくる。その一連の動作を眺めているうち、アンパトは重大な事実に気が付いた。
自分は、何も持っていない。
勢い飛び出してきたこの身体に、備えるものは何もない。
身に纏っているのはここにいるエルフから奪い取った旅人の服と皮のサンダル。腰にあるのは笛と短剣。たったそれだけだ。食べ物も飲み物もない。意識したとたん、喉の渇きと空腹が、一気に身体を支配した。
腹の虫がぐう、と鳴った。
「用意できました。どんぐり粥です」
差し出された椀を覗き込み、アンパトは眉を寄せた。
匙でかき混ぜてみるが、具らしいものは見当たらない。少し白濁した、ただのお湯のようにしか見えなかった。具なし。香りなし。いや、ほぼ白湯だ。
「これ、味も具も、何もないぞ? ただのお湯なのだけれども?」
「お通じがでるまでは、白湯以外飲ますなと医術長からいいつけられていますので⋯⋯」
お通じ?
それが意味するところを理解するまで、複雑な感情を顔で表現をする勇者
「なるほど、生まれたてだから、まだ、離乳食ってわけね」
自嘲気味に笑い、アンパトは味のない粥を喉に流し込んだ。
焚き火から立ち上る細い一筋の煙は、なぜか夜の風に散ることもなく、天に向かって真っ直ぐに伸びていく。それは巨木たちの樹冠を越え、暗い空まで昇っていったのであった。
黒い森の中、勇者としての新しい一歩は、あまりにも静かに、そして空腹と共にふけていった。




