岩は砕けず、拳が砕けた
厚く積もった苔が、素足の裏にしっとり心地よい。巨樹が茂る森の中を、勇者アンパトは身軽な足取りで駆けていた。
その後ろから、自身の背丈ほどもある巨大な背嚢を背負ったエルフが、懸命に追いかけてくる。
「連れ戻そうとするなら、本気で抵抗させてもらうけど?」
アンパトは立ち止まり、抜き放ったナイフの刃をエルフに向けてちらつかせた。
「わたしはどこなりと、勇者様の向かわれる先にお供いたしましょう」
息を切らしながらも、エルフは答える。
その真剣な表情にアンパトは警戒を緩め、ナイフをふわりと上へ放り投げると、落ちてきた柄を逆手で見事に掴み取った。
「学生の頃―― 机の消しゴムを落として、それが床に落ちるまえに、サッと空中で掴んだヤツを見たことがあってね。すげえ!って、すごく驚いたのを覚えてるんだ」
大きな旅荷物を抱えたエルフが、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「だが、そいつが誰だったのか、顔も名前も思い出せない。思い出せないというより、最初から誰だか知らないような感覚――」
アンパトはエルフの顔をまじまじと見つめた。まるで、何十年ぶりかに再会した旧友の名前を記憶の底から手繰り寄せようとするかのように。
「エルフ、お前の名前は?」
「アルギレです」
「よし、アルギレ。お前には、俺を『アンパト様』と呼ぶ栄誉をくれてやろう」
名前を呼ばれないと、自分でも自分の名前を忘れてしまいそうでな⋯⋯。アンパトは、聞こえるか聞こえないかほどの小さな声でぽつりと呟いた。
手首のスナップだけでナイフを高速回転させては、手元で確実につかみ取る。
「100回やっても、失敗する気がしない。――お前ら、俺の体に何をした?」
アンパトはナイフをさやに収めると、その場で軽く跳躍を繰り返した。
着地のたび、裸足がわずかに苔のマットへ沈み込む。
助走を長めにとって数歩力強く踏み込むと、アンパトの体は弾かれたように躍動した。
側転を数回、そこから流れるようにハンドスプリング、前宙!
力強い着地からの、勢いを殺さずバク転。そして高く跳び上がってのバク宙。
さらにバク転を繰り返しながら勢いを増すと、伸身で後方二回宙返りから体をひねり、着地でバランスを崩して尻もちをついてしまうが、そのまま後転し、ゆっくり逆立ち。逆立ち状態から、連続ハンドスプリングで勢いをつけると、最後に豪快な前方伸身三回半ひねりをきめこむ。
スタリと両足を揃えて着地したアンパトには、両腕を高く上げてフィニッシュのポーズを決める余裕すらあった。
アンパトはエルフに向かってどや顔を浮かべると、まだ終わらんよとばかり、だんっ!と力強く地面を踏み込んだ。
地面すれすれを飛ぶツバメのように滑空し、身の丈ほどもある巨大な岩へと跳びかかる。
「おおおおっ!」
振りかぶった右拳を、インパクトと同時に全力で岩に叩きつけた。ガラガラと岩が砕け散る――
――はずだった。
「いたぁっっっっっ!?」
ぐちゃり、と嫌な音がして拳と手首を粉砕された勇者は、あまりの激痛に地面をのたうち回った。岩は傷ひとつついていない。
駆け寄ってきたアルギレが、慌ててポーションを取り出し勇者の手にふりかける。微かな光とともに痛みが引いていった。
「アンパト様! 流石のエルフでも動揺します。一体何をされているのですか!?」
「いや⋯⋯岩、砕けるかと思って⋯」
「勇者様の時代は、素手で岩が砕けたのですか? ポーションも貴重なのです。このような無茶はお辞めください」
「岩は失敗したけどさ、それよりすごくなかったか!? 見たか今の! 超一流の体操選手だって、あそこまで綺麗な宙返りなんてできないぞ! アルギレ、お前記録官だろ。こう記しておけ。『勇者は生まれてすぐ7連続で宙返りを決め、天上天下唯我独尊と言い放った』とな!」
興奮気味に迫る勇者に対し、アルギレは冷ややかな視線を向けた。
「勇者アンパト様⋯⋯。でべそが見えておりますよ、さすがに服を着られてはどうですか」
「えっ?」
己の姿をかえり見たアンパトは固まった。
着ていたのは、頭を通す穴だけが開いたペラペラの患者着。おまけに帯は完全にはだけており、下着も着けていなかった。丸見えである。
カッと顔に血がのぼるのがわかる。
気恥ずかしさと勢い余って、アンパトは帯にかろうじて挟まっていた『精霊の笛』を握りしめ、アルギレの額に一撃を加えた。
「カコッ」
軽い音とともに、どたりと倒れ込むエルフ。ピクピクと痙攣し、苔のマットに血が広がっていく。
「あれ?」
アンパトは首をかしげ、己の手にある笛を軽く振り回した。そして、すぐそばにあった先ほどの硬い岩に笛を軽く打ち付けてみる。
ガラガラッ!
岩はまるで手応えなく、いとも簡単に砕け散った。
「⋯⋯⋯⋯。」
勇者はそっと笛をしまい、痙攣するエルフの荷物をごそごそと漁り、治療のためのポーションを探すのだった。




