詠唱は世界への命令文
朝の学院区は、昨日この街で出迎えられた喧騒が嘘のように静かだった。
白亜の回廊。書物とインクの匂い。遠くの教室から、揃った詠唱の声が静寂を破るが、それは秩序に従ったものだ。喧騒と混沌が混じる工房区とは、同じ街とはとても思えない。
ハーメルンの二人が通されたのは、魔法学院区のさらに奥に林立する研究塔、その中の塔ひとつが丸ごとシュルティス専用だった。山と積まれた本の谷間で、シュルティスが待っていた。生徒は二人だけの、特別講義である。
「第一講。――魔法とは、精霊への依頼である」
長い指が一本、立てられた。
「詠唱は、五つの部分からなる。まず、呼びかけ。精霊を呼び出す必要がある。次に、名乗り。何者が頼むのか。三つ、依頼。何をしてほしいのか。四つ、範囲と規模。どこで、どれだけ。最後に、結び。実行の合図」
そして、五つのどこか一箇所でも書式を誤れば――何も、起きない。
「不発。それだけよ。祈りは、暴れない」
ニリは、水を得た魚だった。
教わったそばから詠唱を諳んじ、二度目には抑揚まで完全に再現してみせる。シュルティスの片眉が、すっと上がった。
「⋯⋯わるくないわね」
短い一言に、ニリは頬を染めて震えた。(大賢者への道の、一段目⋯⋯!)
一方、アンパトは渡された入門テキストの前で固まっていた。
(⋯⋯読めないのだが!!)
詠唱書が読めないのである。ギルドのクエスト文がなんとなく判別できるようになってはきたレベル、見たこともない文字で聞いたこともない内容を書かれても、わかろうはずもなかった。板書も、教本も、全滅である。
妙なことに、部屋の端に描かれている古エルフ語の魔法陣のほうが――なんだか、見覚えのある「かたち」をしていた。読めそうな気さえする。
(⋯⋯なんでだろうな。当世文字より、こっちのほうが馴染む気がするのは)
隣からニリが小声で読み上げてフォローしてくれるが、魔法学の前に、読み書きだな。
字が読めない勇者には、体験学習にて挫折した。
それでも、詠唱の「かたち」には、妙な既視感を覚える。
宛先。名乗り。依頼。数量。実行。
(⋯⋯これ、祈りっていうより――命令文だ。しかも、論理記述寄りの)
「どれ、実技をみせてやろう」
シュルティスが短い詠唱を口にする。歌うような、それでいて一音も揺れない発音だった。
手に持っている扇の上に淡い光の球がぽっと灯り、続く一節で、窓も開いていないのに柔らかい風が頬を撫でていった。
「無から生んだのではない。そこにいる精霊に、光れと頼んだだけ。風も同じ。そこにある空気に、流れる理由を作っただけ」
アンパトが食いついた。
「頼む相手はどこにいるんだ?」
「そこら中に。世界に満ちている」
「なぜ見えない?」
「小さすぎるからよ」
「光るエネルギーは、どこから来る?」
「精霊が蓄えた魔素と術者の魔素から。だからまだ育っていない術者の灯りは、暗い」
アンパトの質問は止まらなかったが、シュルティスは面白がって、その全部に答えた。答えは、どれも筋が通っていた。通っているのに――すべて精霊と魔素の言葉で、体系の内側から一歩も出てこない。完璧な回答なのに、アンパトの一番聞きたい場所には、決して届かない。
(⋯⋯うまいなあ。嘘は一個も言ってない気がするのに、肝心なところが全部ぼかされてる)
「質問はそれくらいで、お前らも魔法をつかってみるがよい」
アンパトは唱えられもせず、ふてくされている。
そして、ニリの初詠唱である。
書式は完璧。発音も完璧。抑揚も、教本どおり。研究室の空気が、心なしか張り詰める。
――しかし、何も、起きなかった。
二度目。不発。三度目。光の球どころか、埃ひとつ動かない。
青ざめるニリに、シュルティスは減点ではなく、静かな問いを返した。
「詠唱はできておる。⋯⋯それで? そなたはいま、精霊にそれを『伝えられた』か?」
「⋯⋯読み上げ、ました。完璧に」
「ええ。完璧に読み上げていたわね」
それ以上、シュルティスは言わなかった。読み上げることと、伝えることは、違う――そう言われている気がするのに、ニリには問いの意味が、まだ掴めない。
「ふふ、まだまだ魔法のさわりよ。その道は深淵なのです。
興味があるなら特別に授業をうけられる手配をしましょう。
もっとも――、そっちの小娘に必要なのは初等学年の授業のようですけどね」
ほほほと、なにやら上機嫌の様子。
特別授業の終わり。帰り支度をする二人の後ろで、シュルティスが、書見台をひと撫でして、ぽつりと言った。
「⋯⋯イシディスも、こちらが魔法の話をしていると、その椅子でよく居眠りしておったわ」
「え?」
振り返ったときには、もういつもの冷笑に戻っていた。
ニリはエルフ流への入門を、その場で即決した。明日から毎朝、この研究塔に通うのだという。目が完全に据わっている。大賢者への道は、今日、確かに一段目を刻んだのだ。⋯⋯詠唱は、不発だったが。
アンパトは少し考えて、首を振った。
「⋯⋯俺は、明日の工房を見てから決める」
文字の学問と、手の学問。
明日は、ドワーフの番だ。




