世界の果ては、しゃぼん玉
「⋯⋯ニリ、もしかして野宿したことないのか?」
「あるわけないじゃない。王都の周辺で野宿が必要なところなんてないわ」
王都を発って数日。西へ向かう街道は国と国をつなぐ交易の大動脈で、歩いて一日ごとに宿場町が整っていた。また野宿の旅を覚悟したアンパトであったが、宿の呼び込みの声、湯気の立つ食堂。おかげで旅は拍子抜けするほど快適である。
「わたくしも先日はじめて野宿をいたしましたが、あれはあれで楽しかったですよ。ね、アルギレ」
「エオス様は寝袋を掛け布だと思って全部ほどかれていましたが⋯⋯」
「あら。あれは寝袋の作りが悪いのです」
涼しい顔で浮世ずれをしている女性冒険者は、お忍び中のこの国の姫君である。その従者めいた位置に控える弓のエルフが、勇者アンパトの保護者兼監視役のエルフのアルギレ。そして隣を歩く同い年くらいの少女が、パーティ『ハーメルン』の相棒、大賢者(予定)のニリだ。
(俺なんて、森を出てからひと月ずっと野宿だったけどな)
どんぐり粥の白湯を思い出して、アンパトは遠い目をした。あの頃に比べれば、屋根と寝床のある旅は天国だ。
その天国の果てが、前方に見えてきた。
雨も降っていないのに、うっすらと、虹がかかっている。
淡い七色の帯は地面から立ち上がり、空まで続いているのが分かる。
目を凝らすと、うっすら光を屈折する膜のようなものが、視界の果てまで続いていることに気が付いた。
「⋯⋯なんだあれ?」
「結界よ」とニリが言った。「精霊様の加護。あの向こうは、もう魔の領域だもの」
石鹸の泡のような、向こうが透けるほど薄い壁が、世界をまるごと仕切っていた。
膜のそばには国境の関所があった。石造りの詰所に、辺境勤めらしい実直な顔の警備兵が立っている。出国の手続きは、あっけなかった。首から下げた真新しい金属札を見せると、出国管理官は一瞥して頷くだけだ。
「E級か。通行証代わりに通用する」
(金属札、さっそく役に立ったな!)
エオスが何事か詰所の管理官と話している。
少し時間がかかりそうだ。一団の手続きを待つ間、アンパトは膜のそばにまで寄ってみた。
膜の根元には、見覚えのある植物が並んでいた。腰の高さほどの、巨大つくし――フサロフェロンだ。膜を挟むように、内と外の両側に、地平の彼方まで列をなして群生している。そして妙なことに、泡を吹き上げているのは、外側の株ばかりだった。内側の株は静かなのに、膜の向こうの株は、休みなくぶくぶくと泡を立てている。
泡は隣の泡と繋がり、繋がったまま空へ立ち上がり、巨大な一枚の膜になっている。
世界の果ては、しゃぼん玉でできていた。
アンパトはそっと、指先で膜に触れてみる。
しゅわり。細かい泡が指先で弾け、そのくせ、ふにりと押し返された。破れない。押せば広がるのに、どこまでも指を包んで返してくる、しっかりした弾力。
(⋯⋯この手触り、知ってる)
スライムの外膜だ。それにこの泡は、あの炭酸の泉で、フサロフェロンが吹いていたのと同じ――
(スライムの膜。フサロフェロンの泡。精霊様の結界。⋯⋯全部、同じ「何か」でできてるのか?)
膜をつついていると、周囲を警戒している兵士が声をかけてきた。
「外に出るんじゃないぞ!」
膜の外は魔の領域。出た者は程なく、前触れなく気絶して、そのまま帰らぬ人となる。毒の気のせいだと言われている、と。
(⋯⋯前触れなく気絶。どこかで聞いたな、その説明)
ダンジョンの深いところと、同じだ。地の底と、地上の「外」。別々の場所で、同じ死に方をする。
国境にしては警備が緩い。警備兵がいるのは建物付近だけだ。
この結界だって、出ようと思えば出入りもできそうだが、そもそも、人類の生存領域から抜けたら生きて出入りができないのか。
膜の向こうをみやると、植物の絨毯の先に、あの荒野があった。
祈りの丘から見下ろした、生き物の影ひとつない大地。あのときは遥か足元の景色だった。それがいま、薄い膜一枚を隔てて、地続きに広がっている。風もしない。鳥もいない。ただ乾いた地面が、どこまでも。
無意識に半歩下がった。
「⋯⋯で。隣の国へは、どうやって行くんだ?」
みなの元に戻って、もっともな疑問を口にする。
「空は飛べないし、歩いて越えたら死ぬんだろ。船? いや川もないか」
エオスがにこりと笑い、関所の奥を指し示した。
石畳の広場の先、岩盤に穿たれた巨大な門扉が開いていた。荷馬車の隊商が、列をなして、ゆっくりと地の底へ吸い込まれていく。門の奥には燐光の灯り、そして見慣れた石段が、闇の奥へと続いていた。
――ダンジョンと、同じ石段が。
「アントニアディ公国とつながる街道は、地下にあるのです」
一行は隊商の列に加わり、地の底の道へと降りていった。




