第9話 その剣術、実戦ではなく殺陣です
叔父ベルナールを王宮の執務室で完膚なきまでに撃破した、あの日。
私のささやかな「壁のシミとして三か月をやり過ごす計画」は、音を立てて崩れ去った。
「ローゼンフェルト。昨日の関税に関する資料だが、マクダウェル領への返書の文面を君に一任する。夕方までに草案を上げてくれ」
「……かしこまりました、殿下」
王太子の執務室。
山積みだった書類を驚異的なスピードで処理し終えた私に、アレクシス殿下は息をつく暇も与えず、次なる難題を笑顔でパスしてくる。
側近見習いという名目だったはずなのに、完全に「有能な右腕」としての扱いである。
(どうしてこうなった……)
羽ペンを滑らせながら、私は内心で深々とため息をついた。
そもそも、私は伯爵令嬢なのだ。政治や外交の細かい実務など教わっていない。だが、前世で劇団の予算管理や、強欲なスポンサーとのギリギリの交渉をこなしていた経験が、この世界での事務処理能力として異常なまでに噛み合ってしまっているのだ。
「見事な筆記だ。内容も簡潔で申し分ない。君は本当に、どこでそんな実務能力を身につけたんだ?」
私の書き上げた草案を一読した殿下が、感嘆の息を漏らす。
「……父の背中を見て育ちましたゆえ」
「ローゼンフェルト伯爵は、そこまで有能だったか?」
殿下が疑わしげに目を細める。お父様、ごめんなさい。殿下の中でお父様の評価が微妙なことになっているようです。
「まあいい。仕事も片付いたことだし、少し息抜きに付き合え」
殿下は羽ペンを置き、立ち上がった。
息抜き。その言葉に、私は少しだけホッとした。優雅な中庭の散策か、あるいはサロンでのお茶会だろうか。
それならば、完璧な貴公子スマイルを張り付けていればやり過ごせる。
しかし、殿下が向かった先は、私が最も足を踏み入れたくない場所だった。
◇◇◇
カンッ! ガキンッ!
王宮の裏手に広がる、第一騎士団の演習場。
そこでは、土煙を上げながら屈強な騎士たちが剣の稽古に汗を流していた。
むせ返るような土の匂いと、男たちの熱気。
フリルとレースを愛する深窓の令嬢(予定)である私にとっては、完全に場違いな空間である。
「殿下、本日の息抜きとは、騎士団の視察でございましたか」
私はなるべく砂ぼこりが立たないよう、優雅な足取りで殿下の斜め後ろを歩きながら尋ねた。
「視察も兼ねてはいるが……おい、ローゼンフェルト」
ふいに、殿下が演習場の隅に置かれていた木剣を二本掴み取り、そのうちの一本を私に向かって放り投げてきた。
「え?」
パシッ。
私の身体は、思考よりも先に反応し、飛んできた木剣の柄を空中で見事にキャッチしていた。
手首のスナップを利かせ、剣の重さを確認するようにクルリと一回転させる。完全に無意識の動作だった。
「……ほう」
殿下の青灰色の瞳が、面白そうに光った。
「やはりな。書類仕事をしている時の君の無駄のない身のこなしを見て、剣も使えるのではないかと思っていた。少し、私の相手をしろ」
「は?」
私は、自分が持っている木剣と、楽しそうに笑う殿下の顔を交互に見比べた。
「お待ちください、殿下! 私は文官志望です! 剣術など、護身の嗜み程度にしか……」
「構わない。私とて、騎士団長ほど腕が立つわけではない。それに、君のその完璧な仮面の下に、どんな素顔が隠れているのか見てみたくてな」
逃げ場はない。
周囲の騎士たちも、王太子殿下が新米の側近と手合わせをすると聞いて、興味津々でこちらを取り囲み始めていた。
ここで「やっぱり無理です」と逃げ出せば、男としての、いや、ローゼンフェルト家跡取りとしての面子が丸潰れになる。
(やるしかない……のか?)
私は観念して、木剣を正眼に構えた。
いや、正確には「正眼に見える、もっとも自分を美しく見せる角度」に構えた。
本物の剣術など、令嬢である私が習っているわけがない。
だが、私には前世で血の滲むような思いをして身につけた「武器」があった。
それは、三千人の観客を魅了するための『舞台剣術(殺陣)』である。
「行くぞ!」
殿下が、鋭い踏み込みとともに木剣を上段から振り下ろしてきた。
速い。そして重い。
まともに受ければ、華奢な私の腕など一発で弾き飛ばされてしまうだろう。
だから、私は『受けない』ことを選択した。
タッ、と羽のように軽い足取りで半歩斜めにスライドする。
殿下の木剣が空を切るのと同時に、私は自分の身体をコマのように回転させた。
遠心力を利用し、マントに見立てた礼服の上着の裾を、バサァッ! と華麗に翻す。
そして、流れるような動作で殿下の側面に回り込み、木剣の切っ先を寸止めで殿下の首元へと突きつけた。
「……なっ!?」
殿下が目を見開き、周囲の騎士たちからは「おおっ……!?」という驚嘆のどよめきが上がった。
(しまった。やりすぎたか?)
だが、一度スイッチが入ってしまった私の身体は、もう止まらなかった。
前世で、トップスターとして大劇場のセンターに立ち、スポットライトを一身に浴びて剣を振るっていた記憶が、私の血を熱く滾らせる。
「ほう……! 避けるか!」
殿下がニヤリと笑い、体勢を立て直して横薙ぎの一撃を放ってくる。
私はそれを木剣で弾かず、刃を滑らせるようにして受け流した。
金属音こそ鳴らないが、私の脳内では完璧なSE(効果音)が鳴り響いている。
チャキンッ! という響きに合わせて、私はあえて大きく、派手な軌道を描いて剣を振るった。
その瞬間、剣先の周囲にごく薄い光の残像が尾を引いた。
どうやら私は、無意識に幻灯魔法で剣筋まで美しく見せていたらしい。
実戦で敵を斬る力ではない。
けれど、相手の視線と魔力の流れを一瞬だけ逸らすことなら、私の舞台仕込みの魔法は誰にも負けなかった。
実戦では隙だらけの、無駄に大きな動作。
だが、その一挙手一投足は、見る者の視線を釘付けにする圧倒的な『美しさ』を持っていた。
ジャンプして殿下の足払いのような下段攻撃を躱し、空中で優雅に一回転。
着地と同時に、伏せ目がちな瞳をスッと上げ、殿下に向かって挑発的な、そしてどこか憂いを帯びた極上の微笑みを向ける。
「……っ!」
その瞬間、なぜか殿下の動きがピタリと止まった。
いや、殿下だけではない。周囲を囲んでいた屈強な騎士たちの何人かが、顔を真っ赤にして呼吸を忘れたように私を見つめているではないか。
(いけない! 完全に『ファンサービス』の癖が出てる!)
私は慌てて木剣を引き、大きくバックステップを踏んで距離を取った。
剣を斜めに下ろし、静かに息を整える。
これもまた、「戦闘後の息を呑むほど美しい立ち姿」という完璧な演出の一部になってしまっているのだが、悲しいかな、私の身体はもうこの所作以外を忘れてしまっていた。
演習場は、奇妙な静寂に包まれた。
「……お見事です、殿下。私の負けです」
私は静かに頭を下げ、木剣を置いた。
これ以上やれば、本当にボロが出る。実戦経験ゼロのハリボテ剣術だということがバレる前に、自主的に降伏するのが一番だ。
しかし。
アレクシス殿下は、木剣を下ろしたまま、私の顔をじっと見つめていた。
その瞳には、先ほどの執務室で見せたものよりも、さらに深く、熱い執着の炎が揺らめいている。
「……負け、だと? 君の剣は、私の一撃をすべて躱し、受け流していたではないか」
「ただ逃げ回っていただけです。実戦であれば、体力のない私はすぐに斬り伏せられていたでしょう」
「確かに、君の剣は実戦的ではない」
殿下はゆっくりと私に歩み寄り、至近距離で立ち止まった。
「無駄が多く、隙もある。だが……恐ろしいほどに美しい剣だ」
低く、甘く、鼓膜を震わせるような声。
「まるで、誰かに見られるために磨き抜かれた芸術品のようだった。……君のあの微笑みを見た瞬間、私の剣先が鈍った。戦場で敵に回せば、これほど厄介な男はいないだろうな」
(男じゃなくて女です! そして、あれはお客様を喜ばせるための殺陣です!)
内心の絶叫を、私は完璧なポーカーフェイスで覆い隠した。
「お前は一体、どこまで私を楽しませるつもりだ、リオン」
殿下が、ふっと嬉しそうに笑った。
その笑顔は、次期国王としての冷徹な顔ではなく、心の底から興味を惹かれるおもちゃを見つけた子どものような、無邪気で、そして絶対的な所有欲に満ちたものだった。
私は、自分がさらに深い沼に足を踏み入れてしまったことを悟った。
壁のシミ計画は、もう残骸すら残っていない。
私の平穏無事な三か月は、この演習場の土埃の中に、完全に消え去ってしまったのだった。




