第10話 弟殿下まで魅了するつもりはありません
第一騎士団の演習場で、あろうことか王太子殿下を相手に『華麗なる舞台剣術(殺陣)』を披露してしまった翌日。
私は王太子の執務室で、書類の山と格闘しながら密かに頭を抱えていた。
(ああもう、バカバカバカ! 私のバカ! なんであそこで見得を切っちゃうのよ!)
羽ペンを握る手に思わず力が入る。
あんな実戦の役に立たない、ただ見た目が美しいだけの剣術など、見せびらかして何になるというのか。
結果として、アレクシス殿下からの評価は下がるどころか、「実戦的ではないが、恐ろしく美しい剣だ」と、変な方向に振り切れた高評価を獲得してしまった。
現に今も、執務机の向こう側から、殿下が時折こちらの様子を窺うような視線を向けてくるのを感じる。
以前の「面白い観察対象」を見る目ではない。
もっと熱の籠もった、絶対に手放さないとでも言いたげな、捕食者の目だ。
(逃げたい。今すぐこの王宮から逃げ出して、お屋敷の自室のベッドに引きこもりたい……!)
内心で血の涙を流していると、不意に殿下が口を開いた。
「ローゼンフェルト。午後は手を空けておけ」
「……はい。何か御用命でしょうか」
私はビクッと肩を震わせながらも、完璧な貴公子の微笑みを張り付けて顔を上げた。
「庭園で、宰相府の者たちを交えた小規模な茶会がある。それに同行しろ。お前も側近見習いとして、そろそろ高位の者たちに顔を売っておく必要があるからな」
「茶会、でございますか」
茶会。その響きに、私はほんの少しだけときめきを覚えた。
前世からずっと憧れていた、優雅なティータイム。美しい庭園で、美味しいお茶と焼き菓子をいただきながら、令嬢たちと楽しく歓談する……。
(って、今の私は男装中じゃない! 令嬢とおしゃべりする側じゃなくて、令嬢から黄色い歓声を浴びせられる側だわ!)
残酷な現実に気付き、私の小さなときめきは一瞬で消え失せた。
◇◇◇
午後。
春の陽気に包まれた王宮の庭園は、色とりどりの花が咲き乱れ、まさに絵画のように美しかった。
白亜の東屋の周囲には、高位の貴族たちや、着飾った令嬢たちが集まり、優雅な談笑の声を響かせている。
私はアレクシス殿下の少し斜め後ろに立ち、息を潜めて気配を殺していた。
幸い、殿下の周りには宰相府の重鎮たちが群がり、難しそうな政治の話をしているため、新米の側近見習いである私にまで話が振られることはない。
(よし。このまま壁のシミ、いや、庭園の植え込みの一部と同化してやり過ごすのよ)
私は呼吸すらも浅くして、存在感を消すことに全力を注いだ。
だが、その時。
私の視界の端に、見覚えのある小さな人影が映った。
(……あ。第二王子殿下)
少し離れた薔薇のアーチの陰。
そこに、銀糸の髪を持つ小柄な少年――ジュリアン殿下が、所在なげに立っていた。
アレクシス殿下の異母弟であり、以前、回廊の柱の陰から私を怯えたように見ていた少年だ。
彼もこの茶会に呼ばれているようだが、輪には加わらず、ポツンと一人で立ち尽くしている。
その背中は丸まり、どこか痛々しさを感じさせた。
ふと、数人の恰幅の良い貴族たちが、ジュリアン殿下の方へと歩み寄っていくのが見えた。
彼らの胸元には、宰相府の派閥を示す紋章が輝いている。
「これはこれは、ジュリアン殿下。このような隅にお一人とは、いかがなさいましたかな」
「……あ、いえ。少し、風に当たっていただけで……」
ジュリアン殿下は、ビクッと肩を跳ねさせ、消え入りそうな声で答えた。
「左様でございますか。しかし、あまり隅にばかりおられては、王族としての威厳が損なわれますぞ」
「そうですな。ただでさえ、優秀なアレクシス殿下と比べられ、色々とご苦労も多いでしょうに。もう少し、堂々となさってはいかがです?」
言葉の表面だけを繕った、ねっとりとした嫌味。
貴族たちは、敬意を払うふりをしながら、明らかにジュリアン殿下を見下し、精神的に追い詰めている。
ジュリアン殿下は何も言い返せず、ギュッと唇を噛み締め、俯いてしまった。
(……なんなの、あれ)
私の胸の奥で、チリッとした火花が散った。
あの貴族たちのやり口。
前世の劇団で、権力を持った理不尽な演出家が、才能はあるのに気弱な後輩をネチネチといびり倒していた時の光景と、完全に重なった。
私は、そういう陰湿なイジメが大嫌いだ。
(ダメよ、リリアーナ。今は目立っちゃいけない。ここでしゃしゃり出たら、また面倒なことになるわ)
頭の中の理性は、必死にブレーキをかけていた。
だが、私の身体は、理性の言うことなど一切聞かなかった。
気がつけば、私はアレクシス殿下の背後を離れ、滑るような足取りで薔薇のアーチへと向かっていた。
「おや。ジュリアン殿下、このような所にいらっしゃいましたか。探しておりました」
甘く、よく通る声で語りかけながら、私は貴族たちとジュリアン殿下の間に、ごく自然な動作で割って入った。
「……え?」
ジュリアン殿下が、驚いて顔を上げる。
宰相派の貴族たちも、突然現れた私に目を白黒させた。
「君は……確か、ローゼンフェルト伯爵家の」
「はい。リオン・ローゼンフェルトと申します。現在、王太子殿下の側近見習いを務めさせていただいております」
私は完璧な角度で一礼し、貴族たちに向かって極上の微笑みを向けた。
相手を油断させつつ、決して隙を見せない、スター特有の『営業スマイル・防弾仕様』である。
「皆様、ジュリアン殿下の話し相手を務めていただき、ありがとうございます。ですが、殿下は少々お疲れの様子。これ以上の歓談は、殿下のお体に障るかと存じます」
「なっ……我々はただ、殿下を励まそうと……」
「ええ、存じております。皆様の海よりも深い忠誠心と、温かいお心遣いには、胸を打たれる思いです」
私は言葉を切り、スッと目を細めた。
微笑みは崩さないまま、瞳の奥にだけ、背筋が凍るような冷気を宿して。
「ですが、真の忠誠とは、相手の心に寄り添うことではないでしょうか。……ご立派な見識をお持ちの皆様であれば、これ以上、ご自身の声の大きさで殿下を疲弊させるような真似はなさらないと、私は信じておりますが?」
「っ……!」
言葉は丁寧だが、その実「お前らの声はうるさくて迷惑だから早く消えろ」という痛烈な皮肉である。
貴族たちは顔を真っ赤にしたり、青ざめたりしながら、ワナワナと震え始めた。
しかし、私が王太子の直属であるという肩書きと、有無を言わさぬ威圧感の前に、反論の言葉を見つけられないようだった。
「……失礼する!」
捨て台詞を吐き、貴族たちは逃げるようにその場から立ち去っていった。
私は小さく息を吐き出し、張り詰めていた空気を解いた。
「お怪我はありませんか、ジュリアン殿下」
振り返り、まだ状況が飲み込めていない様子のジュリアン殿下に、優しく声をかける。
「あ……ありがとう、リオン。君が、助けてくれたんだね……」
「とんでもございません。私はただ、通りすがっただけでございます」
私は膝を折り、ジュリアン殿下の目線に合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
「殿下は、何も悪くありません。心ない言葉に、耳を貸す必要はございませんよ」
私の言葉に、ジュリアン殿下の大きな瞳から、ポロリと一粒の涙が零れ落ちた。
「っ……僕、僕はいつも、誰かに庇ってもらってばかりで……。兄上みたいに、強くなくて……」
「強さの形は、人それぞれです。殿下には、殿下にしかない優しさという強さがあるはずです。どうか、ご自分を責めないでください」
私は、前世で泣きじゃくる後輩を慰めた時のように、とろけるような甘い声で囁き、ジュリアン殿下の手をそっと握った。
瞬間、ジュリアン殿下の顔が、耳の先まで真っ赤に染まった。
涙で潤んだ瞳が、私を――まるで、暗闇に差し込んだ一筋の光を、あるいは理想の王子様を見上げるような、熱烈な崇拝の光を帯びて見つめてくる。
(……やってしまった)
私は、心の中で頭を抱えた。
完全に、スタースイッチが入りっぱなしだった。
相手が怯える少年だったからといって、無意識のうちに『悲劇のヒロインを救い出す王子様』のメソッドをフル活用してしまったのだ。
「リオン……。君は、本当に……」
ジュリアン殿下が、私の手を両手でぎゅっと握り返してくる。
その熱量に、私はサッと血の気が引いた。
(これ、絶対に懐かれたわよね。王太子殿下だけでも手一杯なのに、第二王子殿下まで……!?)
絶望的な未来を想像し、顔面が引き攣りそうになったその時。
「――随分と、弟と仲良くなったようだな、ローゼンフェルト」
背後から、低く、冷気を孕んだ声が降ってきた。
振り返ると、数歩離れた場所で、アレクシス殿下が腕を組んで立っていた。
その青灰色の瞳は、私とジュリアン殿下が握り合っている手を、じっと見つめている。
怒っているわけではない。だが、どこか面白くなさそうな、得体の知れない独占欲を滲ませた眼差し。
「あ、兄上……!」
ジュリアン殿下が弾かれたように手を離し、ビクッと身を縮こまらせた。
「私の側近が、まさか弟まで魅了するとは思わなかったな」
アレクシス殿下は、静かに私に向かって手招きをした。
「来い、リオン。君の主は、私だ」
(ヒィッ!)
私は内心で悲鳴を上げた。
王太子殿下の執着。第二王子殿下からの崇拝。
私の平穏無事な三か月の壁のシミ生活は、もはや幻影すら残っていなかった。
私は、震える足でアレクシス殿下の元へと歩み寄りながら、天を仰いで泣きたくなったのだった。




