第11話 王太子殿下にダンスを教えることになりました
「来い、リオン。君の主は、私だ」
庭園での一件で、第二王子ジュリアン殿下から熱烈な崇拝の眼差しを向けられてしまった私を、アレクシス殿下は面白くなさそうな顔で連れ去った。
そしてその日の夜。
私は、王宮の奥にある人気のない小サロンに呼び出されていた。
「殿下、こんな夜更けに私のような新米の側近見習いを呼び出して、一体どのような御用命でしょうか」
室内には、暖炉の火と、数本の蝋燭が静かに揺れているだけだ。
広いサロンの中央に立つアレクシス殿下は、いつもきっちりと着込んでいる上着を脱ぎ、少しラフなシャツ姿になっていた。
月光のような銀髪が、炎の光を受けて淡く輝いている。
「……近々、他国の使節団を招いた夜会があるのは知っているな」
「はい。資料の整理はあらかた終えておりますが」
殿下は少し気まずそうに視線を逸らし、小さく咳払いをした。
「その夜会で、私はファーストダンスのリードを務めなければならない。……だが、私は昔から、どうもダンスのリードというものが得意ではなくてな」
「え?」
私は思わず間抜けな声を出してしまった。
「剣術や馬術ならいくらでも訓練のしようがある。だが、ダンスだけは……相手を気遣いながら美しく立ち回るということに、どうにも正解が見出せないのだ。だから……今夜、私の練習に付き合ってほしい」
(王太子殿下が、ダンスの練習相手に私を!?)
いくら私が優秀な側近見習い(不本意)だとしても、男同士でダンスの練習など前代未聞ではないか。
しかし、目の前に立つ殿下の顔は、真剣そのものだった。
彼もまた、次期国王という『完璧な王太子』の仮面を被るため、人知れず血の滲むような努力をしているのだ。
「……かしこまりました。私でよろしければ、お相手いたします」
私は小さく息を吐き、殿下の前へと歩み寄った。
「すまない、ローゼンフェルト。では、まずは私がリードをしてみる」
殿下が、真面目くさった顔で私の腰に右手を回し、左手で私の右手を握った。
その瞬間、私はビクッと肩を震わせそうになった。
(ち、近いわ……っ!)
男装しているとはいえ、私の中身は年頃の令嬢なのだ。
こんなにも美しい顔立ちの長身の青年と、至近距離で見つめ合うことなど、前世を含めても初めての経験だった。
男役スターだった前世では、私が『見つめる側』だったのだから。
「行くぞ」
殿下の合図とともに、見えない音楽に合わせてステップを踏み始める。
いち、に、さん。いち、に、さん。
(……うわぁ)
数歩動いただけで、私は殿下が「得意ではない」と言った理由が痛いほど理解できた。
歩幅が広すぎる。
姿勢は完璧だが、相手への思いやりが欠けている。
何より、腰に回された手の圧が強すぎて、まるで拘束されているかのようなのだ。
これでは、相手の令嬢は緊張してしまい、笑顔を作るどころではないだろう。
「……殿下、ストップです」
私は耐えきれず、ステップの途中で動きを止めた。
前世で、娘役の相手をいかに美しく見せ、安心させるかに全力を注いできた『男役の血』が、この不器用すぎるエスコートを見過ごすことを許さなかったのだ。
「ダメだったか?」
「申し訳ありませんが、これでは令嬢が息を詰まらせて倒れてしまいます。……恐れ入りますが、少し失礼いたします」
私は、殿下の手をそっと払い、今度は私の方から殿下の腰へと右手を回した。
「なっ……君がリードするのか?」
「はい。少しだけ、私の動きを感じてみてください」
私は、殿下の大きな左手を下から優しく包み込むように取った。
「まず、手の圧です。相手を逃がさないように強く握るのではなく、相手がいつでも離れられるように、ふんわりと包み込む。けれど、決して落ちないという安心感を与える。……これくらいの力です」
私は、前世で何千回と繰り返した、あの『極上のエスコート』の力加減を再現した。
「……なるほど。確かに、柔らかいが、不思議と安定している」
殿下が、少し驚いたように私の手を見下ろす。
「次に、歩幅。自分の歩幅で進むのではなく、相手の呼吸を読み、半歩だけ先に足を出して、相手を誘い込むように……こうです」
私は滑るような足取りでステップを踏み出した。
殿下は、私の淀みない動きに導かれるように、自然と足を出していく。
「そして最も大切なのは、目線です」
私は顔を上げ、至近距離で殿下の青灰色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
ただ見つめるのではない。
相手への敬意と、甘さと、今この瞬間はあなただけを見ているという、強烈なメッセージを込めた視線。
「足元や周囲を見るのではなく、ただ目の前の相手だけを愛おしむように見つめる。そうすれば、相手の令嬢も、自然と殿下に微笑み返してくれるはずです」
私は、完璧な王子様の微笑みを唇に浮かべたまま、殿下を軽やかにリードしてサロンの中央を舞った。
自分よりも背が高く、体格も良い王太子を、男装した令嬢が軽々とリードして踊っているという、客観的に見れば奇妙極まりない光景。
だが、私の中のスイッチは完全に『舞台の上』に入ってしまっていた。
「……驚いたな」
一曲分のステップを終え、静かに立ち止まった時。
殿下が、私の顔をじっと見つめながら低く呟いた。
「君の教え方は、ただ上手いだけではない。……人を、決して怖がらせない。とても優しく、心地よいリードだ」
その声には、いつも執務室で見せるような冷徹さは微塵もなく、ただ純粋な感嘆と、ほんの少しの熱が混じっていた。
(……この人、ただ不器用なだけなんだ)
私は、胸の奥がきゅっと鳴るのを感じた。
完璧に見える王太子殿下は、誰よりも自分の役割に真面目で、そして誰かを傷つけることを恐れている。
そんな彼の不器用な素顔を知り、私は初日のような警戒心が薄れ、代わりに温かい好感を抱き始めている自分に気がついた。
「殿下は真面目すぎますから。もっと肩の力を抜いて、相手との時間を楽しめばいいのですよ」
私が自然な笑顔でそう言うと、殿下もまた、ふっと柔らかい笑みをこぼした。
静かな夜のサロン。
暖炉の火の粉が爆ぜる音だけが、心地よく響いていた。
――だが、その平穏な空気は、殿下の次の一言で一変することになる。
「……それにしても、見事すぎる」
殿下は、私の腰から手を離さないまま、少しだけ顔を近づけてきた。
青灰色の瞳が、私の菫色の瞳の奥深くを、逃げ場を与えないほどの鋭さで探ってくる。
「相手を安心させる手の圧、視線の誘導、歩幅のコントロール。どれも、座学で身につくものではないだろう」
「っ……」
「君は、この完璧なステップとエスコートを――一体、誰に習ったんだ?」
低く、甘く、しかし決してごまかしを許さない声。
心臓が、跳ね上がった。
しまった。またやってしまったのだ。
相手を安心させようとするあまり、私が前世で血の滲むようなレッスンを重ねて習得した『男役の技術』のすべてを、この頭の切れる王太子殿下に、惜しげもなく披露してしまった。
殿下の顔が、さらに数センチ近づく。
彼の息遣いがかかるほどの距離で、私は完全に言葉を失い、ただ完璧な仮面の下で冷や汗を流すことしかできなかった。




