第6話 側近見習いは聞いていません
「明日から、私の側近見習いとして来い。私の執務室に君の席を用意しておく」
大理石の回廊で王太子殿下からそう告げられた時、私の頭の中は完全に真っ白になった。
思考が停止し、口から魂が抜け出そうになるのを、前世で鍛え上げた腹筋でなんとか堪えた。
「……謹んで、お受けいたします。殿下」
私の口は、勝手に完璧な臣下の礼を紡いでいた。
断れるわけがない。相手はこの国の次期国王なのだ。出仕初日の新米令息が「あ、自分そういう目立つの無理なんで」などと言えるはずがなかった。
ただの代役だ。
三か月間、誰の記憶にも残らない壁のシミとして平穏無事に過ごすはずだったのに。
なぜ、よりにもよって一番目立つ王太子殿下の、しかも直属に引き抜かれているのか。
(私の平穏な三か月! 私の可愛いお茶会! 全部遠のいていく……っ!)
内心で血の涙を流しながらも、私の顔は涼やかな微笑みを崩さなかった。
これがいけないのだ。動揺すればするほど、私の身体は自己防衛として「完璧な王子様の仮面」を分厚くしてしまう。
その結果が、翌日のこれである。
「ローゼンフェルト。そこの資料の束を、年代順にまとめておいてくれ」
「かしこまりました、殿下」
王宮の中枢、王太子専用の執務室。
重厚なマホガニーの机に向かうアレクシス殿下の斜め後ろに、私の小さなデスクが用意されていた。
広間での謁見とは違い、ここは限られた人間しか入れない密室に近い空間だ。
殿下は書類に視線を落としたまま、羽ペンを走らせている。
私は気配を殺し、命じられた書類の整理を黙々とこなしていた。
(よし、いいぞ。この調子で有能な事務員として徹するのよ。余計なことは喋らない。目立たない)
書類の束を美しく揃え、ふと殿下のカップが空になっていることに気がついた。
(お茶のお代わりくらいは、側近見習いの仕事よね)
私は静かに立ち上がり、部屋の隅に用意されていたティーセットへ向かった。
銀のポットを手に取り、新しいカップに紅茶を注ぐ。
――その時、またしても私の「業」が発動してしまった。
ただお茶を注ぐだけだというのに、無意識のうちに背筋が伸び、肘の角度が最も美しく見える位置に固定される。
ポットを傾ける手首のしなやかさ。
紅茶の香りを立たせるための、絶妙な高さと速度。
カップをソーサーに乗せ、殿下の机へ静かに置くまでの、足音ひとつ立てない優雅な身のこなし。
すべてが、前世の舞台で娘役を相手に甘くお茶を淹れてみせた、あの演技の延長線上だった。
「殿下。お茶が入りました。少し、休憩なさってはいかがでしょうか」
声のトーンまで、甘く相手を労わる『極上の王子様ボイス』になっていた。
言ってから気づいた。しまった、やりすぎた。
アレクシス殿下は羽ペンを置き、私の差し出したティーカップを見つめた。
そして、ゆっくりと視線を上げて、私を捉えた。
「……君は、本当になんなんだ」
呆れたような、感嘆するような、不思議な響きの声だった。
「ただお茶を淹れただけでございますが」
「その『ただ淹れるだけ』の所作が、王宮で何十年も仕えている筆頭侍従よりも洗練されていると言っているんだ。君の動きには、一切の無駄がない。そして……」
殿下はカップを持ち上げ、紅茶の香りを深く吸い込んだ。
「不思議だな。君のそばにいると、私も少しだけ『王子らしく』振る舞える気がする」
「……え?」
私は思わず、完璧な仮面を少しだけずらして間抜けな声を出してしまった。
殿下の青灰色の瞳が、窓から差し込む光を反射して少しだけ翳る。
「私は昔から、王太子らしい華やかさに欠けると言われて育ってきた。ただ真面目なだけで、人を惹きつける魅力がないと。……だから、君のように息をするだけで周囲を魅了するような男を見ると、嫉妬すら覚えるよ」
それは、王太子という重圧を背負う青年の、無防備すぎる本音だった。
(殿下……)
私は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
この完璧に見える王太子殿下もまた、「理想の王子」という役を演じることに苦心し、劣等感を抱えているのだ。
その気持ちは、前世で「理想の男役」を求められ続けた私には、痛いほどよくわかった。
「……殿下は、ご自身のままで十分立派でいらっしゃいますよ。それに、華やかさなど、ただの飾りです」
気づけば、私は自分の本心を口にしていた。
殿下は少し驚いたように目を見開き、やがてフッと柔らかく微笑んだ。
「君にそう言われると、不思議と説得力があるな」
その笑顔は、普段の冷徹な王太子の顔ではなく、年相応の青年のものだった。
(……いけない。これ以上深入りしたら、絶対に抜け出せなくなる)
私は慌てて一歩下がり、深いお辞儀をして自分のデスクへと戻った。
壁のシミになる計画が、初日から盛大に狂い始めている。
◇◇◇
「でかしたぞ、リオン! いや、リリアーナ!」
その日の夕刻。
疲れ果ててローゼンフェルト伯爵邸に帰還した私を待っていたのは、涙を流して喜ぶお父様の姿だった。
「まさか出仕初日に、王太子殿下の側近見習いに抜擢されるとは! これで我が家の安泰は約束されたも同然だ!」
「お父様、声が大きいです。誰かに聞かれたらどうするんですか」
執務室のソファに深く沈み込みながら、私は盛大なため息をついた。
「扉は閉めた。この部屋には私とお前と、信頼できるミレーヌしかおらん。いやあ、お前の男装がこれほど役に立つとはな。三か月と言わず、このままリオンとして立身出世を目指すのも……」
「絶対に嫌です! 約束が違います!」
私はガバッと身を起こし、お父様を睨みつけた。
「私は三か月後、兄上が戻り次第、元の令嬢に戻ります! そして白薔薇舞踏会には、リリアーナとして可憐なドレスを着て出席するんです! これ以上の重労働はお断りです!」
私の切実な叫びに、お父様は「わ、わかっている」とタジタジになって引き下がった。
壁際で控えていたミレーヌが、小さく肩を揺らして笑っているのが見えて腹立たしい。
――だが、その扉の外で聞き耳を立てていた者までは、想定していなかった。
その和やかな(?)家族の空気を、冷ややかな声が切り裂いた。
「――ほう。ずいぶんと景気のいい話が聞こえてくるではないか、兄上」
執務室の重厚な扉が、ノックもなしに開け放たれた。
そこに立っていたのは、豪奢な上着に身を包み、蛇のようにねっとりとした笑みを浮かべた中年の男。
「べ、ベルナール……! なぜお前がここにいる!」
お父様が顔色を変えて立ち上がる。
ベルナール叔父様。
ローゼンフェルト家の分家に身を置きながら、常に本家の家督を狙っている、底意地の悪い叔父だ。
「なぜとは冷たい。甥の初出仕の労いに来たのですよ。それにしても……」
叔父は、ソファに座る私をねっとりとした目つきで上から下まで舐め回すように見た。
「王宮では随分と目立っているそうだな、リオン。だが、私にはどうも腑に落ちない。お前のような若造に、家を背負う覚悟などあるのか? それとも……何か隠し事でもしているのではないかな?」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
王太子殿下の監視に続き、今度は身内の探り。
私の三か月の平穏は、完全に粉々に砕け散ろうとしていた。




