第5話 王太子殿下、それは観察ですか
「殿下、お待たせして申し訳ありません」
大理石の回廊。
私は、心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に堪えながら、王太子アレクシス殿下の前で足を止めた。
数歩離れた場所から、殿下は腕を組んだまま、じっと私を見つめていた。
月光のような艶やかな銀髪に、知性を感じさせる青灰色の瞳。
その整いすぎた顔立ちは、彫刻のように美しく、そして恐ろしいほどに冷ややかだった。
「……見事な手際だったな、ローゼンフェルト」
静かな声が、回廊に落ちる。
咎めるような響きはなかったが、決して手放しで褒めているわけでもない。
その声の奥にあるのは、純粋な『疑問』と『観察』の念だ。
「もったいないお言葉です。ですが、私はただ、足元に落ちた布を拾い上げただけに過ぎません」
私は極めて優雅に、そして謙虚に頭を下げた。
表情筋のコントロールは完璧だ。前世で何千回と繰り返した、謙遜する若き貴公子の微笑み。
「ただ拾い上げただけ、か。……ならば問おう。君は、誰にあの所作を習った?」
殿下が、ゆっくりと一歩、私に近づいてきた。
長身から見下ろされる圧迫感に、思わず後ずさりしたくなるが、私は足裏に根を張ったように動かなかった。ここで怯めば、不審がられるだけだ。
「ローゼンフェルト伯爵家の教育の賜物でございます。父から、淑女には常に敬意を払うよう厳しく躾けられておりますので」
「なるほど。伯爵家の教育は、落とし物を拾う際の『左膝をつく角度』や、令嬢を安心させるための『声のトーン』まで規定しているのか。それに、あの距離感だ。女性を怖がらせず、かつ惹きつける、あの絶妙な半歩の詰め方。……あれは、座学で身につくものではないだろう」
(うわあああっ! 細かすぎる!)
私は内心で絶叫した。
左膝の角度! 声のトーン! 半歩の詰め方!
すべて、私が前世で星都歌劇団の男役スターとして、血の滲むようなレッスンと舞台経験から導き出した『理想の王子様』の黄金比である。
まさか、初対面の王太子にそこまで精密に分析されるとは思わなかった。
この人の観察眼はどうなっているのか。少しは鈍感であってほしかった。
「殿下のお見立ては鋭く、恐縮の極みです。ですが、本当に無意識の行動でして……。双子の妹に幼い頃から振り回されて育ちましたゆえ、自然と身についた手癖のようなものかと」
双子の妹(つまり私自身だ)がいることは王宮でも知られているはずなので、その言い訳を使って必死に煙に巻く。
殿下は、私の青い目――正確には菫色の瞳を、まっすぐに射抜くように見つめ返してきた。
「……手癖、か」
信じていない。絶対に信じていない顔だ。
だが、これ以上の追及は無粋だと判断したのか、殿下はふっと息を吐いて視線を外した。
「まあいい。君が何者であれ、あの令嬢が救われたのは事実だ。他の者が見て見ぬ振りをする中で、君だけが動いた。その行動力は評価に値する」
「恐れ入ります」
私は静かに一礼し、ようやく肩の力を抜くことができた。
どうやら、致命的な正体バレには繋がらなかったようだ。
ふと、殿下の背後――回廊の少し離れた太い柱の陰に、小さな人影があることに気がついた。
(……子ども?)
私より少し年下、十五歳くらいの少年だった。
銀糸を思わせる髪は殿下と似ているが、その雰囲気はまったく違う。
小柄で、どこか怯えたような、自信のなさそうな瞳。
柱の陰からこちらを窺うその姿は、小動物のように震えているように見えた。
私の視線に気づいたのか、少年はビクッと肩を跳ねさせ、慌てて回廊の奥へと姿を消してしまった。
「……ジュリアンか」
殿下が、私の視線の先を追って低く呟いた。
「ジュリアン殿下……、第二王子殿下でいらっしゃいますか」
「ああ。私の異母弟だ。……あいつは昔から、王宮の空気に怯えているところがあってな。私に対しても、どう接していいかわからないのだろう」
殿下の声には、微かな憂いと、そして自分に対する諦めのようなものが混じっていた。
(弟殿下も、息苦しそうだったな……)
王太子であるアレクシス殿下は、常に完璧で冷徹な王位継承者としての顔を崩さない。
そして第二王子ジュリアン殿下は、その重圧や周囲の期待に押し潰されそうになっている。
どちらも、生まれた時から「王族」という役を押しつけられ、その仮面の下で苦しんでいるのではないか。
前世で「理想の王子様」という役割に縛られ、今世でもまた兄の身代わりとして「完璧な貴公子」を演じさせられている私は、どこか彼らに同情めいたものを感じていた。
「……君は、不思議な男だ」
不意に、殿下が再び私へと向き直った。
その青灰色の瞳には、先ほどの冷たい観察眼とは違う、静かな熱が灯っていた。
「へ?」
「隙のない完璧な礼儀作法を持ちながら、その奥には誰かを庇おうとする温かさがある。だが、どこか一歩引いて、舞台の上から世界を見渡しているような……奇妙な視界の広さを持っている」
(舞台の上から見渡しているような、って……鋭すぎるわよ、この王太子!)
心臓が再び早鐘を打つ。
私の前世の職業病が、この頭の切れる王太子には丸見えなのだ。
「ローゼンフェルト伯爵令息、リオン」
「は、はい」
「私は、君という人間に興味を持った。いや、私の側に、君のような人間が必要だ」
殿下の言葉に、嫌な予感が背筋を駆け上がる。
待って。三か月、目立たず壁のシミとして過ごすという私の計画が。
「明日から、私の側近見習いとして来い。私の執務室に君の席を用意しておく」
「……はい?」
私は、完璧な貴公子の仮面がペリッと剥がれ落ちる音を聞いた気がした。
「そ、側近見習い、ですか? しかし私は本日出仕したばかりの身。そのような大役は、到底……」
「構わない。私が必要だと判断した。異論は認めない」
有無を言わさぬ、王太子としての絶対の命令。
私はただ口をパクパクと開閉させることしかできなかった。
ただの代役として、三か月間だけひっそりとやり過ごすはずだったのに。
なぜ出仕初日で、王国の次期国王の直属に引き抜かれているのか。
(違う! 違うのよ! 私は、可憐なドレスを着た深窓の令嬢になりたいの!)
内心で血の涙を流しながらも、私の身体は悲しいほど完璧な角度で頭を下げていた。
「……謹んで、お受けいたします。殿下」
こうして、私の「平穏無事にやり過ごす三か月」という儚い夢は、王宮出仕の初日にして完全に粉砕されたのだった。




