第4話 ハンカチを拾っただけです
「君、少し待て。話がある」
謁見の広間から退出した直後、背後からかけられた低く通る声。
振り返ると、そこには王太子アレクシス殿下が立っていた。
「……はい。なんでしょうか、殿下」
私は努めて冷静に、完璧な貴公子の微笑みを張り付けた。
心の中では冷や汗が滝のように流れている。
まさか、初日の挨拶だけで何かバレたのだろうか。いや、いくらなんでも早すぎる。私の男装は、侍女のミレーヌでさえ「似合わない要素を探すのが困難」と評したほどの完成度なのだから。
「ここではなんだ。少し場所を変えよう。ついてこい」
殿下は短くそう告げると、踵を返して歩き出した。
断る権利など、新米の伯爵令息にあるはずもない。私は小さく一礼し、殿下の少し後ろを静かに歩き始めた。
大理石の回廊を進むにつれ、周囲には他の貴族や令嬢たちの姿が増えてきた。
どうやら、ここは広間から続く歓談の場のようだ。色とりどりのドレスを着た令嬢たちが、扇で口元を隠しながら優雅に談笑している。
(ああ……いいなぁ。あの淡いピンクのドレス、今年の流行りの形だわ。袖のレースのあしらいも素敵。本当なら今日、あんな風にドレスを着て宮廷茶会に出ているはずだったのに……)
前を歩く殿下に気づかれないよう、私は横目で令嬢たちのドレスをうっとりと観察していた。
その時だった。
「きゃっ……」
前方で、小さな悲鳴が上がった。
視線を向けると、薄茶色の髪をした小柄な令嬢が、派手なドレスを着た高位の令嬢たちの集団に軽く肩をぶつけられ、たたらを踏んでいた。
「あら、ごめんなさいね。見えなかったわ」
ぶつかった令嬢は、謝罪の言葉とは裏腹に、見下すような冷たい視線を向けてそのまま通り過ぎていく。
小柄な令嬢は何も言い返せず、俯いて身を縮こまらせた。
その拍子に、彼女の手から淡い桜色のハンカチがふわりと零れ落ち、冷たい大理石の床に落ちた。
彼女は慌てて拾おうと手を伸ばしたが、そこへ運悪く、恰幅の良い男性貴族が通りかかった。
彼は足元のハンカチになど気づく様子もなく、そのまま踏みつけそうになる。
令嬢は怯えたように身を引き、目をギュッと瞑った。
――その瞬間。
私の身体が、思考よりも先に動いていた。
タッ、と軽い足取りで床を蹴り、男性貴族の革靴がハンカチを踏みにじる寸前で、その間に滑り込む。
左膝をふわりと床につき、右膝を立てる。
背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、指先まで神経を行き届かせた優雅な所作で、床に落ちた桜色の布を拾い上げた。
そして、まだギュッと目を瞑っている令嬢を見上げ、甘く、広間に響きすぎない絶妙な声量で囁きかけた。
「お怪我はありませんか、レディ」
「……え?」
令嬢が、驚いたように目を開く。
私の視線が、彼女の焦げ茶色の瞳と真っ直ぐに絡み合う。
私は、前世の舞台で何千人ものファンを熱狂させた、あの『極上の微笑み』を唇に浮かべた。
「大切なものなのでしょう。汚れる前でよかった。どうか、お手元に」
私は拾い上げたハンカチを両手で丁寧に包み込むように持ち、彼女の震える手の上にそっと乗せた。
決して指先を強く触れ合わせるような下品な真似はしない。あくまで相手を尊重し、安心させるための、計算し尽くされた距離感。
「あ……あの、その……」
令嬢の顔が、みるみるうちに林檎のように真っ赤に染まっていく。
彼女の瞳には、先ほどの恐怖ではなく、信じられないものを見るような驚きと、隠しきれない熱情が浮かんでいた。
そして、その目からは、ポロポロと大粒の涙が零れ落ち始めたではないか。
「っ、ありがとうございます……。私のような者に、こんな、優しくしていただいたの、初めてで……」
震える声で紡がれたその言葉に、私は内心で激しく頭を抱えた。
(ああっ、違う! 違うのよ!)
顔は完璧な王子様の微笑みをキープしたまま、私の内なる伯爵令嬢リリアーナは絶叫していた。
(なんで私の身体は勝手に動くの!? ハンカチが落ちる、踏まれそうになる、かばう。完全に前世の男役としての条件反射じゃない! 職業病にも程があるわ!)
それに、この令嬢の反応。
ただハンカチを拾って返しただけなのに、どうして泣くほど感激しているのだろうか。
周囲を見渡せば、男性貴族たちは令嬢同士の諍いなど気にも留めず、誰も手を差し伸べようとしていなかった。
(もしかして、この世界の令嬢たちって、案外男性から丁寧に扱われていないの? ただ顔が良くて背が高い男に優しくされたから泣いているんじゃなくて、『人として丁重に扱われたこと』自体に救われている……?)
そうだとしたら、この国の紳士たちのエスコートレベルは低すぎる。
私が夢見ている『優しくて完璧な王子様に手を取られる』という人生計画に、暗雲が立ち込めている気がする。
「お気になさらず。美しいドレスが濡れてしまっては勿体ない。どうか、笑顔でお過ごしください」
内心の焦りを微塵も表に出さず、私は最後にもう一度だけ甘く目を細め、立ち上がった。
周囲の令嬢たちが「あの方、どなた?」「なんて美しい所作なの……」と頬を染めてひそひそと囁き合っている。
しまった、目立ちすぎた。
三か月間、壁のシミとして生きるという私の崇高な目標が、出仕初日にして早くも崩壊の危機を迎えている。
私は慌てて踵を返し、私を呼び止めたはずの王太子殿下の姿を探した。
勝手に列を離れた不敬を咎められるかもしれない。
「殿下、申し訳ありません。お待たせしてしまっ――」
振り向いた私の言葉は、途中でピタリと止まった。
数歩離れた場所で、王太子アレクシス殿下が、腕を組んでこちらを静かに見つめていた。
その青灰色の瞳は、令嬢たちのような熱を帯びてはいない。
ただひたすらに冷徹で、そして、鋭い。
私の膝のつき方。
ハンカチの拾い上げ方。
声をかける時の顔の角度。
そのすべてを、まるで希少な実験動物でも観察するかのように、じっと射抜いていたのだ。
(うわぁ……。見られてた。しかも、めっちゃ観察されてる……!)
背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、私はこれ以上ないほど完璧な姿勢で、殿下の前へと歩み寄った。




