第3話 王宮は初舞台より怖くありません
ヴァルフォード王国、王宮。
大理石が敷き詰められ、荘厳なシャンデリアが輝く謁見の広間は、独特の重苦しい空気に満ちていた。
今日からここで、私は「リオン・ローゼンフェルト」として出仕する。
「次。ローゼンフェルト伯爵家嫡男、リオン・ローゼンフェルト」
広間の入り口で文官が私の名を呼び上げると、その場に集まっていた数百名もの貴族や文官、騎士たちの視線が一斉にこちらへと向けられた。
刺さるような、評価の目。
この国の中枢を担う者たちが、新しくやってきた若造がどれほどの器なのかを見定めようとしているのだ。
普通の16歳の令息であれば、この威圧感だけで足がすくみ、冷や汗を流して歩様を乱してしまうだろう。
私も、広間の扉の前に立った瞬間は、ごくりと息を呑んだ。
なにせ中身は昨日までフリルのドレスを楽しみにしていた伯爵令嬢なのだ。
バレたら家が取り潰されるかもしれないという重圧もあり、心臓は早鐘のように打っていた。
だが――。
一歩、光の当たる広間の絨毯に足を踏み入れた瞬間だった。
(……あれ?)
不思議なほど、スッと心が冷えて、視界がクリアになった。
幾百もの視線が私を射抜いているというのに、恐怖よりも先に、身体が勝手に「最適なポジション」を探り始めたのだ。
シャンデリアの光の落ちる角度。
自分の立ち位置から、玉座までの距離。
もっとも美しく見える歩幅と、マントに見立てた礼服の裾がわずかに風をはらむ速度。
(なんだ。……舞台より、ずっと狭いじゃない)
前世で私が立っていた、星都歌劇団の大劇場。
そこに広がるのは、三千人を超える観客の熱狂と、一挙手一投足を逃さず見つめるオペラグラスの砲列、そして一瞬のミスも許されない生きた舞台の魔力だった。
厳しい演出家や評論家の目線に比べれば、この貴族たちの視線など、ただの静かな観客にすぎない。
私は自然と顎を弾き、広間の空気を支配するように、ゆっくりと歩みを進めた。
背筋はピンと張り詰め、伏せ目がちにした瞳の奥に強い光を宿す。
ざわ……っ。
私が数歩進んだだけで、広間の空気が変わったのがわかった。
値踏みするような視線が、驚きと、隠しきれない感嘆へと変わっていく。
「あれが、ローゼンフェルト家の……?」
「なんという洗練された足運びだ」
「それに、あの隙のない立ち姿。まるで名画から抜け出してきたかのようではないか」
ひそひそという囁き声が波紋のように広がるが、私の耳には心地よいBGM程度にしか聞こえない。
これも職業病だ。視線を集めれば集めるほど、私はより「完璧な王子様」になってしまう。
内心では「私は可憐な令嬢です! こんなところで男気を発揮したくありません!」と血の涙を流しているのに、身体は勝手に極上の貴公子を演じきっていた。
やがて、玉座の前へと辿り着く。
そこには、厳格な顔つきをした国王陛下と、その傍らに立つ一人の青年がいた。
王太子、アレクシス・ヴァルフォード殿下。
月光を思わせる艶やかな銀髪に、知性を感じさせる青灰色の瞳。
背が高く、均整の取れた体躯は、王族としての威厳に満ちている。
しかし、その整いすぎた顔立ちのせいか、どこか人を寄せ付けない冷ややかな空気を纏っていた。
私はゆっくりと膝を折り、臣下の礼をとった。
背中から首筋にかけてのラインが一番美しく見える角度。これも骨の髄まで染み込んだ所作だ。
「ローゼンフェルト伯爵家長男、リオン・ローゼンフェルト。御前に罷り越しました。陛下と殿下の御健勝を、心よりお慶び申し上げます」
静寂の広間に、私の声が響き渡った。
広間の反響を計算し、一番後ろの列にいる騎士の耳にまで届くように発声した、張りのある低い声。
マイクのない大劇場で鍛え抜かれた「通り抜ける声」は、異世界の王宮でも健在だった。
「……うむ。面を上げよ」
国王陛下が、わずかに目を見張った後、鷹揚に頷いた。
その目には明らかな好感と、頼もしい若者を見つけたという評価の色が浮かんでいる。
(よし。完璧。これで第一印象はクリアね)
私は内心でガッツポーズをした。
このまま無難にやり過ごし、三か月間、壁のシミのように目立たず生き延びるのだ。
そして約束通り、白薔薇舞踏会には可憐なリリアーナとしてデビューする。完璧な計画である。
私は涼やかな微笑みを浮かべたまま、静かに立ち上がり、一礼して下がろうとした。
その時だった。
玉座の傍らに立っていた王太子アレクシス殿下の青灰色の瞳が、私の動きを射抜くように捉えていることに気がついた。
彼だけは、他の貴族たちのように感嘆の息を漏らしてはいなかった。
微かに眉をひそめ、私の指先の動き、視線の流し方を、まるで未知の生き物を観察するような鋭さで見つめている。
(……え? なに?)
その視線に、私は背筋が粟立つような感覚を覚えた。
彼の目は「礼儀正しい立派な青年」を見ている目ではなかった。
私の所作の奥にある違和感――これが単なる貴族の教育の産物ではなく、誰かに『魅せる』ために計算し尽くされた技術であることに、勘付いているかのような目。
(まさか、見抜かれた? いやいや、いくらなんでも早すぎるでしょ)
私は無理やり動揺を押し殺し、表情筋を微塵も動かさずに、優雅な足取りで貴族たちの列へと戻った。
大丈夫。私の男装は完璧だ。お父様だって実の息子より跡取りらしいと言っていたのだから。
挨拶の儀が終わり、貴族たちが三々五々に散り始める。
私もこれ幸いと、なるべく早く目立たない場所へ移動しようと踵を返した。
「そこの、ローゼンフェルトの息子」
背後から、低く、しかしよく通る声が響いた。
それは間違いなく、私を引き留める声だった。
私はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。
そこには、いつの間にか玉座の段を下りてきた王太子アレクシス殿下が、静かにこちらを見据えて立っていた。
「……はい。なんでしょうか、殿下」
私は努めて冷静に、完璧な貴公子の微笑みを作って応えた。
アレクシス殿下は、私のつま先から頭の頂点までをもう一度じっくりと観察した後、感情の読めない声で告げた。
「君、少し待て。話がある」
私の壁のシミ作戦が、出仕して一時間も経たないうちに粉砕された瞬間だった。




