第44話 王子様スキルは結婚式でも抜けきりません
「……まあ。なんて美しいのかしら」
王宮の奥にある、豪奢な衣装室。
大きな三面鏡の前に立った私は、そこに映る自分の姿に、思わずほうっと感嘆の溜息を漏らした。
ふんだんに使われた、光沢のある純白のシルク。
デコルテを優美に彩る真珠の装飾に、何層にも重ねられたふんわりとしたチュール。
そして、背中から床へ向かって長く、長く引かれた豪奢なレースのトレーン(引き裾)。
それは、この国の最高の職人たちが総力を挙げて仕立て上げた、私のためのウェディングドレスだった。
「お見事でございます、リリアーナ様。まるで女神のようでいらっしゃいますわ」
私の専属侍女であるミレーヌが、目元をハンカチで押さえながら感極まった声を出した。
「ありがとう、ミレーヌ。……でも、これ、すごく重いわね」
私は、ドレスの裾を少しだけ持ち上げて、そっと一歩を踏み出してみた。
ズシッ、と、生地の重みが全身にのしかかる。
前世の星都歌劇団で男役トップスターをしていた時も、今世で男装して王太子殿下の側近を務めていた時も、私は常に「動きやすさ」を重視した服を着ていた。
白薔薇舞踏会の時のドレスも重かったけれど、このウェディングドレスは比にならない。
(こんなに長くて重い裾を引きずって、大聖堂の長いバージンロードを歩くのよね……。絶対に転ばないように、体幹をしっかり意識しないと)
私が鏡の前で真剣に足捌きのシミュレーションをしていると、衣装室の重厚な扉が静かに開いた。
「――リリアーナ。試着は順調か?」
入ってきたのは、王国の次期国王であり、私の愛する婚約者、アレクシス殿下だった。
王太子としての激務の合間を縫って来てくれたのだろう。少しだけ急いだのか、銀色の前髪がわずかに乱れている。
殿下は、三面鏡の前に立つ私の姿を見た瞬間、ピタリと足を止め、言葉を失ったように目を大きく見開いた。
「殿下? いかがでしょうか。似合っていますか?」
私が少し照れくさく小首を傾げると、殿下はゆっくりと歩み寄り、ひどく熱を帯びた青灰色の瞳で私を見つめた。
「……言葉が出ないな。君が美しいことは出会った時から知っていたはずだが、今日の君は特別だ。そのまま抱きさらって、誰の目にも触れさせたくない衝動に駆られる」
「まあ。式を前に花嫁を誘拐する王子様なんて、前代未聞ですわよ」
私がクスクスと笑うと、殿下は私の手を取り、その甲に深く、甘い口付けを落とした。
「この美しい姿を、あの広い大聖堂で大勢の貴族たちに見せびらかさなければならないのかと思うと、少しばかり嫉妬を覚えるな」
「嬉しいお言葉ですが、殿下。私、少し不安なのです」
私は、長いレースのトレーンを振り返って見せた。
「このドレス、とても重くて裾が長いでしょう? 私がもし、大聖堂の真ん中で転んでしまったり、殿下の足を踏んでしまったりしたら……」
それは、かつて男役として娘役をエスコートしていた私が、最も恐れていた「舞台上のミス」だった。
「いっそのこと、私がパンツスーツの礼服を着て、殿下をエスコートして入場した方が、安全で確実ではないでしょうか?」
私が真顔で提案すると、部屋の隅で控えていたミレーヌが「お嬢様!?」と悲鳴のような声を上げた。
殿下も、一瞬ポカンとした後、肩を揺らして低く笑い出した。
「ふっ……ははは! 君という女性は、本当に私を飽きさせないな」
「殿下、私は大真面目です。国家の威信をかけた成婚の儀で、花嫁がすっ転ぶわけにはいきませんわ」
「心配ない、リリアーナ」
殿下は笑いを収めると、極上の甘い微笑みを浮かべ、私の腰にそっと右手を回した。
「君は、私の姫だ。君が転びそうになれば私が支えるし、足を踏まれたところで微動だにしない。……君はただ、安心して私に全てを委ねてくれればいいのだ」
「殿下……」
「練習してみようか。本番のつもりで、私の歩調に合わせて」
殿下が、私の左手をそっと取った。
私たちは、衣装室の広い空間を大聖堂のバージンロードに見立てて、ゆっくりと歩き始めた。
いち、に、さん。いち、に、さん。
音楽はないけれど、私たちの中には確かなリズムが流れていた。
殿下のエスコートは、力強く、それでいて驚くほど柔らかい。
私が重いドレスの裾に足を取られそうになる一瞬前に、殿下の腕が的確に私の重心を支え、美しい軌道へと導いてくれる。
(……すごいわ。これが、私を完全に守り切る覚悟を持った人の、エスコート)
しかし、私の身体に染み付いた「男役としての癖」は、そう簡単には抜けてくれない。
角を曲がるターンの時。
私は無意識に、相手(殿下)を美しく見せるための半歩広いステップを踏みそうになってしまった。
――グッ。
その瞬間、殿下の腕が私の腰を強く引き寄せた。
「おっと。……私がリードすると言ったはずだぞ、リリアーナ」
「あ……申し訳ありません。つい、身体が勝手に……」
「君のその『守る側』に回ろうとする癖は、愛おしいが、今日ばかりは封印してもらおう。……君の手を引くのは、私の特権だからな」
殿下が、至近距離で青灰色の瞳を細め、少しだけ独占欲を滲ませて囁く。
ドン、と胸板に当たる距離感に、私は顔を真っ赤にして頷くことしかできなかった。
(ああ、もう。本当に、この人には敵わないわ)
前世からずっと憧れていた、完璧な王子様。
その腕の中にすっぽりと収まり、ただ身を委ねる幸福感に、私は改めて「姫」になれた喜びを深く噛み締めていた。
――バァァァンッ!!
その甘い雰囲気を、無惨にも打ち砕く音が響いた。
衣装室の重厚な扉が乱暴に開かれ、フラフラとした足取りで入ってきたのは、本物の兄、リオンだった。
「……お熱いところ邪魔して悪いが、アレクシス殿下。そして我が妹よ」
兄は、目の下に深々とクマを作り、両手には抱えきれないほどの分厚い書類の束を持っていた。
「成婚の儀の、大聖堂周辺の警備計画書と進行表だ。……お前が以前作った『完璧な式典マニュアル』のせいで、要求される警備のハードルが高すぎて、俺は三日三晩まともに寝ていないんだぞ……!」
怨嗟の声を漏らしながら、兄がフラフラとこちらへ近づいてくる。
「お疲れ様です、お兄様。でも、国家の一大行事ですもの。完璧を期すのは当然ですわ」
「お前のその容赦ない完璧主義、本当にどうにかしてくれ……。俺が結婚する時は、絶対に身内だけの質素な式にするからな……」
ブツブツと文句を言いながらも、兄の目はどこか誇らしげで、幸せそうに見えた。
「苦労をかけるな、リオン。だが、君の妹を無事に私のものにするためだ。最後まで頼むぞ」
「……御意にございます、殿下。我が妹の晴れ姿、この命に代えても守り抜いてみせましょう」
兄が、疲れた顔に気合いを入れ直し、完璧な騎士の礼をとる。
その頼もしい姿に、私は心からの感謝を込めて微笑んだ。
愛する完璧な王子様と、少し不器用だけれど頼りになる家族。
そして、私自身が選び取った、新しい令嬢としての生き方。
三面鏡に映る純白のドレス姿の私は、前世のどの舞台の時よりも、最高に幸せな笑顔を浮かべていた。




