第43話 姫にも騎士にもなれる令嬢
「私の姫であり、最強の騎士であり、最高の共犯者である君へ。……どうか、一生私の隣で、その笑顔を見せてくれないか」
静寂に包まれた王宮の執務室。
王家に伝わる深く澄んだブルーダイヤの指輪を真っ直ぐに差し出しながら、この国の次期国王であるアレクシス殿下は、私を見つめていた。
その青灰色の瞳には、もう公の場で見せるような冷徹な王太子の仮面はない。
ただ一人の男性として、私という存在を丸ごと愛し、望んでくれている、熱く甘い光だけが宿っていた。
「私が……一生、殿下の隣に」
私の声は、自分でも驚くほどひどく震えていた。
前世で、私はずっと『理想の王子様』を演じ続けてきた。
女性だけの歌劇団で、男役トップスターとして誰かに手を差し出し、甘い言葉を囁き、可憐な娘役たちを輝かせるための完璧な柱として生きる日々。
それは私の誇りであり、大勢の観客を笑顔にできる素晴らしい仕事だった。けれど、一人きりの楽屋へ戻るたび、心の底ではずっと、誰かに自分の手を取ってほしかったのだ。
役柄としてではなく、私自身を愛し、大切に守ってくれる『王子様』に迎えに来てほしかった。
今世で念願の令嬢に生まれ変わっても、結局は兄の身代わりとして男装を強いられ、再び剣を握り、王子様役を演じる羽目になった。
私の夢は、もう叶わないのかもしれないと諦めかけた夜もあった。
けれど、目の前にいるこの人は。
私が男装して完璧な側近を演じていた時も、ドレスを着て令嬢として微笑んだ時も、泥だらけになって魔法で背中を守った時も。
その全てを『リリアーナ』という一人の人間として受け止め、愛し抜くと誓ってくれている。
「……はい」
私の目から、ポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
「私でよろしければ。……喜んで、殿下の隣に立たせていただきますわ」
私が満面の笑みで頷くと、殿下は心底安堵したように息を吐き出し、私の左手をそっと取った。
薬指に、冷たくも確かな重みを持つブルーダイヤの指輪が滑り込む。
「ありがとう、リリアーナ。……君を、世界で一番幸せにすると誓おう」
殿下が私の腰を強く引き寄せ、重なる唇。
不器用だけれど、どこまでも誠実で情熱的なその口付けに、私は静かに目を閉じた。
前世からずっと抱えてきた「誰かに守られたい」という切実な願いが、今、最高の形で満たされていくのを感じていた。
◇◇◇
それから、数ヶ月の時が流れた。
「――おっと、危ない!」
王宮の長い回廊。
抱えきれないほどの資料を持った若い文官の令嬢が、バランスを崩して転びそうになった瞬間。
私は反射的に足を踏み出し、彼女の腰を左手でスッと支え、右手で崩れ落ちそうになった資料の束を完璧なバランスで受け止めた。
「お怪我はありませんか、レディ?」
私が自然なウインクと共に微笑みかけると、文官の令嬢は顔を真っ赤にして固まった。
「あ、あ、ありがとうございますっ! リ、リリアーナ特別顧問様……!」
「ふふっ、お気をつけて。資料運び、手伝いましょうか?」
「い、いえっ! 滅相もございません! 失礼いたしますわーっ!」
令嬢はパタパタと小走りで逃げるように去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は小さく苦笑する。
(ああもう、またやってしまったわ。困っている女性を見ると勝手に身体が動く王子様ムーブ、すっかり抜けない職業病ね)
私が今身に纏っているのは、かつてのような胸を潰す晒しと重厚な男物の礼服ではない。
王室特別顧問という新たな役職のために特別に仕立てられた、濃紺のスタイリッシュなパンツスーツだ。
女性らしい身体のラインを隠すことなく、動きやすさと気品を兼ね備えたその装いは、今の私の『自由』を象徴するものだった。
男装はもう、家を守るための義務ではない。
私は王宮に『リリアーナ本人』として出仕し、幻灯魔法による防衛システムの構築や、貴族間の交渉役として日々王宮内を飛び回っている。
「相変わらず、無自覚に令嬢たちを口説いているようだな、俺の妹は」
背後から、呆れたような声が降ってきた。
振り返ると、王太子の筆頭側近の証である銀の組紐を肩に飾った、本物の兄リオンが立っていた。
毒の後遺症も完全に抜け、今ではすっかり元の軽口を叩けるようになっている。
「お兄様こそ。殿下に仕事を押し付けられて、すっかり目の下にクマができていますわよ?」
「誰のせいだと思っている! お前が三ヶ月間で優秀すぎる側近の基準を作ってしまったせいで、俺への要求水準がおかしなことになっているんだぞ!」
兄が恨めしそうに私を睨む。
持ち前の頭の回転の速さを活かし、兄は殿下の右腕として激務をこなしていた。
「まあまあ。私はこれから、セラフィーナ様たちとお茶会ですから。お仕事、頑張ってくださいね」
「くそっ、俺も早く結婚して嫁に癒やされたい……」
愚痴をこぼしながら執務室へ戻っていく兄を見送り、私は明るい陽射しが差し込む中庭へと歩みを進めた。
王宮は今、驚くほど平和だ。
宰相一派が一掃されたことで、かつては誰かの背後に隠れていた第二王子のジュリアン殿下も、今では自らの足で立ち、精力的に公務をこなし始めている。
セラフィーナ様も「誰かの完璧な婚約者」という重圧から解放され、公爵令嬢として堂々と自分の道を歩んでいた。
誰もが、押し付けられた役割から解放され、自分の人生を選び取り始めている。
もちろん、私も。
◇◇◇
そして、夜。
一日の公務を終えた王宮の、私的な夜会が開かれる小広間にて。
私は昼間のパンツスーツから一転し、夜空の星を散りばめたような、美しい瑠璃色のドレスに身を包んでいた。
デコルテを彩る宝石。ふわりと広がる最高級レースの感触。
大好きなドレスを着て、こうして夜会に華を添える時間も、今の私にとってはかけがえのない喜びだ。
「……私の婚約者は、今夜もため息が出るほど美しいな」
背後から、甘く低く、鼓膜を直接撫でるような声が響いた。
振り返ると、純白の夜会服を纏い、威風堂々とした立ち姿でこちらに微笑みかけるアレクシス殿下の姿があった。
「殿下。お疲れ様でございますわ」
私が完璧なカーテシーを披露すると、殿下は私の手を取り、左手の薬指に輝くブルーダイヤにそっと口付けた。
「昼間は颯爽と王宮を駆け回る有能な騎士。夜はこうして、誰よりも可憐に微笑む私の姫。……君は本当に、私を飽きさせない女性だ」
「ふふっ。それが私の魅力ですから」
私は、照れることなく堂々と微笑み返した。
かつての私なら、「完璧な令嬢でいなければ」と肩肘を張っていたかもしれない。
けれど、今はもう違う。
私はもう、誰かに与えられた役だけを演じない。
パンツスーツで剣を握り、自ら道を切り拓く騎士にもなれる。
ドレスを着て、愛する人に守られながら微笑む姫にもなれる。
どちらかを選ぶ必要なんてない。
その全てが「リリアーナ・ローゼンフェルト」という、私自身の選択なのだから。
「さあ、行こうか、リリアーナ。今夜の最初の一曲も、私にくれるだろう?」
殿下が、優しく、愛おしげに手を差し出してくる。
「ええ。喜んで、私の王子様」
私は、心からの幸福に満ちた笑顔で、その大きな手を取り返した。
煌めくシャンデリアの光の下。
今世こそ姫になりたいと願った元男役スターの令嬢は、最高の王子様と共に、自分だけのステップで光の中へと歩み出していくのだった。




