第42話 これからは、私が私の生き方を選びます
「で、殿下っ!? 皆様が見ていらっしゃいますわ!」
「見せておけばいい。……私はもう、一秒たりとも君を離すつもりはないからな」
白薔薇舞踏会の会場である大広間。
宰相グレゴールが連行され、歓喜と安堵の熱狂に包まれる中。
この国の次期国王であるアレクシス殿下は、煤けたドレス姿の私を誰の目も憚らずに強く抱きしめ、私の手の甲に深く、熱い口付けを落とした。
周囲の貴族たちから、先ほどまでの称賛とはまた違う、ひどく甘く熱を帯びたため息と、祝福の拍手が巻き起こる。
「あ、ああ……」
私は、顔がボンッと音を立てて爆発しそうなくらい熱くなるのを感じた。
前世で、舞台の上で娘役の手にキスをしたことは何百回とある。
けれど、自分が『される側』になるのが、こんなにも心臓に悪く、そして頭が真っ白になるほど幸せなことだなんて、思いもしなかった。
「……やれやれ。俺の妹は、とんでもない大物を釣り上げたものだ」
「ベルナールの縁談など、木っ端微塵どころの話ではないな……」
すぐ傍らで、本物の兄リオンとお父様が、呆れたような、けれどどこか誇らしげな声で囁き合っているのが聞こえる。
国家転覆の危機を脱し、私の正体暴露という最大の爆弾すらも、周囲の圧倒的な支持によってねじ伏せた。
激動の三ヶ月間の集大成となったこの夜は、後に王国の歴史に語り継がれる『伝説の白薔薇舞踏会』として、こうして華々しく幕を閉じたのだった。
◇◇◇
それから、数日後。
「――入れ」
王宮の、王太子専用執務室。
殿下の短い入室許可の声に応え、私と兄のリオンは、連れ立って足を踏み入れた。
今日の私は、男装用の漆黒の礼服ではなく、淡いすみれ色の可憐なドレスに身を包んでいる。
胸を潰す晒しもなく、髪も美しく結い上げられている。
もう、兄の身代わりとして自分を偽る必要はないのだ。
「よく来てくれた、ローゼンフェルト伯爵家長男リオン。そして、長女リリアーナ」
執務机の奥から、アレクシス殿下が静かに立ち上がった。
その顔は、公の場で見せる冷徹な王太子の顔ではなく、どこか穏やかで、柔らかい光を帯びていた。
「はっ。殿下の御召しにより、推参いたしました」
すっかり体調も回復し、騎士としての精悍さを取り戻した兄が、完璧な臣下の礼をとる。
私もそれに倣い、ドレスの裾をつまんで優雅なカーテシーを披露した。
「リオン。国境での君の命懸けの働きのおかげで、宰相一派の余罪は全て裏付けが取れた。奴の派閥に属していた悪徳貴族たち――君の叔父と結託していたゴメス男爵も含め、全て捕縛済みだ」
「ありがたき幸せに存じます」
「君の勇気と忠義に、王室は深く感謝する。……休養が明け次第、正式に私の筆頭側近として、再びこの王宮で力を貸してほしい」
「身に余る光栄です。我が剣と忠誠は、殿下のために」
兄が、力強く頷く。
前世の私の『王子様スキル』で築き上げた側近としての評価は、こうして無事に本物の兄へと引き継がれた。少しばかり兄のハードルを上げすぎてしまった気もするが、彼ならきっと立派にやり遂げてくれるだろう。
「そして、リリアーナ」
殿下の青灰色の瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。
「君が犯した『王室を欺き、男装して出仕した罪』についてだが。……国王陛下直々の裁下により、完全な不問とすることが決定した」
「……っ」
「不問どころか、君は暴走した古代遺物から王宮を救い、大勢の命を守った最大の功労者だ。陛下も、君の幻灯魔法の腕前と機転を大いに賞賛しておられた」
私は、ホッと胸を撫で下ろした。
罰せられないとは殿下から聞いていたが、正式に国王陛下のお墨付きをもらえたことで、我が家への処罰の懸念は完全に消え去ったのだ。
「君には、王室から二つの恩賞が用意されている。……一つは、王家主催の夜会へのフリーパスや莫大な金一封を含む、物質的な褒賞。そしてもう一つは、『リリアーナ本人』に対する、王室特別顧問への就任打診だ」
「特別、顧問……?」
私が目を瞬かせると、殿下はふっと口角を上げた。
「そうだ。王室はもはや、君を『兄の代役リオン』として求めているわけではない。君自身の類稀なる才覚、魔法の腕、そして何より、周囲の人間を惹きつけ、心を救うその圧倒的な人間力を手放したくないのだ」
「私の、人間力……」
「男装はもう、家を守るための義務ではない。だが、もし君が望むなら、これからも令嬢としての枠に囚われず、時には動きやすい服を着て、私の隣でこの国を導く手伝いをしてくれないか?」
殿下の言葉が、私の心の奥底の、一番柔らかい部分にスッと染み込んでいった。
前世で、私は『男役トップスター』という役割に縛られていた。
今世では『完璧な令嬢』になることを望みつつも、結局は家のために『兄の身代わり』という役割を背負わされた。
けれど、今は違う。
(私はもう、誰かに与えられた役だけを演じなくてもいいんだわ)
姫にもなれる。騎士にもなれる。
ドレスを着て微笑むことも、剣を(正確には木剣と魔法を)手にして誰かを守ることも、どちらか一方を諦める必要なんてない。
私がどう生きるかは、私自身が自由に選べるのだ。
「殿下。……私、お受けいたしますわ」
私は、溢れそうになる涙を堪え、満面の笑みで頷いた。
「私が私らしく生きられる場所を、殿下が用意してくださるというのなら。喜んで、その恩賞を頂戴いたします」
「……そう言ってくれると信じていた」
殿下が、心底嬉しそうに目を細めた。
その時。
隣にいた兄リオンが「ゴホン」とわざとらしく咳払いをした。
「では、俺はこれからの引き継ぎの準備がありますので、一足先に失礼させていただきます。……リリアーナ、あまり殿下を困らせるなよ」
「ちょっと、お兄様!?」
兄は、私に向かってニヤリと意味深な笑みを向けると、さっさと踵を返し、執務室の扉を閉めて出て行ってしまった。
残されたのは、私とアレクシス殿下の二人きり。
「気遣いのできる兄で助かるな」
殿下は、ゆっくりと執務机の奥から歩み出て、私の目の前で立ち止まった。
そして、その大きな右手で、執務机の引き出しから小さなビロードの箱を取り出した。
「リリアーナ。先ほど、二つの恩賞と言ったが……実は、あれは王室からの公的なものだ。私個人からの恩賞は、別にある」
「殿下からの、恩賞?」
パカッ、と。
開かれた箱の中に鎮座していたのは、吸い込まれそうなほどに深く澄んだ、王家に伝わるブルーダイヤの指輪だった。
「私の姫であり、最強の騎士であり、最高の共犯者である君へ」
殿下は、私の左手をそっと取り、その青灰色の瞳に、世界中のどんな宝石よりも熱く、重い愛を宿して私を見つめた。
「君の全てを、私が愛し抜く。……どうか、一生私の隣で、その笑顔を見せてくれないか」
それは、この国の次期国王からの、決して逃げられない、そして私が前世からずっと待ち望んでいた、世界で一番甘いプロポーズの言葉だった。




