第36話 最初の一曲を、私に
「遅くなってすまない。……待たせたな、私の姫」
シャンデリアの眩い光が降り注ぐ、王宮の大広間。
数百人もの貴族たちが見守る中、この国の次期国王であるアレクシス殿下は、私の目の前で優雅に跪き、私の右手をそっと取った。
手のひらに落とされる、羽のように軽い口付け。
その瞬間、私の胸の奥で、長年張り詰めていた何かがふわりと解けていくのを感じた。
(ああ……)
前世で、女性だけの星都歌劇団で男役トップスターとして舞台に立っていた私。
私はいつも、輝くスポットライトの中心で、誰かの手を取る側だった。
娘役たちに甘い言葉を囁き、彼女たちを美しくエスコートし、観客の歓声を一身に浴びる『完璧な王子様』。
それが私の誇りであり、存在意義だった。
けれど、本当は。
心の底ではずっと、一度でいいから、こうして誰かに手を取られ、大切に扱われる『お姫様』になってみたかったのだ。
「……お待ちしておりましたわ、私の王子様」
私は、顔が薔薇色に染まっていくのを自覚しながら、心からの微笑みを返した。
真珠色のシルクに、お母様の形見である白薔薇のレースがあしらわれたドレス。
今夜の私は、誰の身代わりでもない、ただのリリアーナだ。
殿下がゆっくりと立ち上がり、私をエスコートして広間の中央へと導く。
周囲の貴族たちが、息を呑んで道を空ける。
叔父ベルナールとゴメス男爵の醜態の直後ということもあり、王太子殿下が直接私を迎えに来たという事実は、ローゼンフェルト伯爵家の令嬢たる私の価値を、これ以上ないほどに高めていた。
「今宵の君は、言葉を失うほど美しいな。……そのドレス、とてもよく似合っている」
「ありがとうございます。殿下の純白の夜会服も、夜空の星のように素敵ですわ」
広間の中央に歩み出た私たちは、静かに向き合った。
オーケストラが、優雅でゆったりとしたワルツの調べを奏で始める。
殿下が、私の腰に左手を添え、右手で私の左手をそっと包み込んだ。
いち、に、さん。いち、に、さん。
音楽に合わせて、静かに一歩を踏み出す。
その瞬間、私は微かな驚きに目を見張った。
(すごい……完璧なリードだわ)
以前、夜の小サロンで私が手取り足取り教えた時は、真面目すぎるがゆえにどこか硬く、拘束するような圧があった。
だが、今の殿下のエスコートは違う。
手の圧はふんわりと柔らかく、それでいて決して私を落とさないという絶対的な安心感がある。私の呼吸を読み、半歩だけ先へ足を出し、私が最も美しく見える軌道へと自然に誘い込んでくれるのだ。
ふわり、と。
ターンに合わせて、私の真珠色のドレスが花びらのように美しく広がった。
白薔薇のレースが空気を孕み、シャンデリアの光を反射して煌めく。
「……どうした? 驚いたような顔をして」
殿下が、青灰色の瞳に甘い光を宿しながら、私を見つめてきた。
至近距離で交わる視線。周囲の喧騒が遠のき、まるでこの世界に私たち二人しかいないかのような錯覚に陥る。
「殿下、とてもお上手になりましたね。……私のステップを、少しも邪魔しません」
私が素直な賞賛を口にすると、殿下は得意げに、けれどどこか照れくさそうに唇の端を上げた。
「先生がよかったからな。それに……私が世界で一番愛しいと思う女性を、不格好に躍らせるわけにはいかないだろう?」
「っ……!」
その甘すぎる言葉に、私の心臓がドキンと大きく跳ねた。
反則だ。冷徹な王太子殿下が、こんなにストレートな愛の言葉を囁くなんて。
コルセットで締め上げられた胸が、苦しさとは違う理由で高く高鳴っている。
(ああ、幸せ……。この時間が、ずっと続けばいいのに)
私は、殿下の肩に添えた手に少しだけ力を込め、完全に彼に身を委ねた。
前世で何百回とリードする側に立ってきた私が、今、心から安心して相手のステップに寄り添っている。
それがどれほど奇跡的で、幸せなことか。
しかし。
この幸せな時間に浸りきっていた私の『舞台人』としての感覚が、不意に微かな違和感を拾い上げた。
(……ん?)
ワルツのステップを踏みながら、私は視線だけを動かして周囲を窺った。
大広間を照らすシャンデリアの光。その光の揺れ方が、どこか不自然だ。
私の持つ『幻灯魔法』は、光と影、音、そして視線誘導を操る魔法。だからこそ、空間の光の屈折や、影の動きには人一倍敏感だった。
壁際で控えている給仕たち。
彼らの一部が、不自然なほど等間隔に配置されている。
そして、その足元に落ちる影の濃さが、周囲の貴族たちのそれとは明らかに違う。服の下に、光を吸収する黒い金属――凶器を忍ばせている証拠だ。
(……配置を変えている。ただの警備じゃないわ。獲物を囲い込む陣形よ)
私の胸の奥で、甘い陶酔がスッと冷め、冷ややかな緊張感が広がっていく。
王宮地下での制圧作戦は、今まさにこの舞踏会の裏で進行しているはずだ。
だが、宰相派も馬鹿ではない。地下の拠点が襲撃されるリスクを考慮し、地上の大広間――つまりこの白薔薇舞踏会の会場にも、暗殺者を潜ませていたのだ。
私が微かに身体を硬直させたのを、殿下は即座に感じ取った。
「……気づいたか、リリアーナ」
殿下が、笑顔を崩さないまま、私の耳元で極めて小さな声で囁いた。
「はい。壁際の従者たち、それに東の柱の陰。……最低でも十人は、武装して潜んでいますわ」
「ああ。第一騎士団のクラウスたちも配置にはついているが、貴族たちを巻き込まずに制圧するのは骨が折れそうだ。……だが、曲が終わるまでは止められない」
殿下の声に、冷徹な王太子の響きが戻る。
そうだ。ここで私たちが不審な動きを見せれば、暗殺者たちは即座に牙を剥き、無関係な令嬢や貴族たちがパニックに陥る。
被害を最小限に抑えるためには、このまま優雅に踊り続け、敵が動くその一瞬の隙を突くしかない。
「ご安心ください、殿下」
私は、ニコリと極上の微笑みを浮かべ、殿下を見つめ返した。
「私の舞台に泥を塗るような不作法者たちには、相応の退場口を用意して差し上げますわ。……私に、考えがあります」
「君のその悪い笑顔は、リオンの時と全く変わらないな。……頼りにしている」
殿下は、私の腰を強く引き寄せ、ターンを加速させた。
ドレスの裾が円を描き、私たちは広間の中央で最も目を引く存在であり続けた。
そして、ワルツの曲が終盤に差し掛かり、オーケストラが最後の盛り上がりを見せようとした、その瞬間。
チリッ、と。
空気が焼け焦げるような、張り詰めた殺気が膨れ上がった。
東の柱の陰から、そして壁際から。
給仕の服を着た男たちが、一斉に懐から鈍く光る短剣を抜き放ち、私たちを目掛けて床を蹴った。
「殿下ッ!!」
貴族たちの悲鳴が上がるより早く。
私は、お姫様としての甘い時間を切り捨て、自分の手でこの舞台を守り抜くために、ドレスの裾を翻した。




