第35話 私の舞台に泥を塗ることは許しません
シャンデリアの眩い光が降り注ぐ、王宮の大広間。
軽やかな弦楽器の調べが、色とりどりのドレスと夜会服に身を包んだ貴族たちの間をすり抜けていく。
この国の未婚の令嬢たちが、正式に社交界へと足を踏み入れる、一生に一度の晴れ舞台。
白薔薇舞踏会。
「……緊張しているか、リリアーナ」
私の右手をそっと腕に絡ませたお父様が、少しだけ固い声で問いかけてきた。
「いいえ、お父様。少しだけ、胸が高鳴っているだけですわ」
私は、扇で口元を隠しながら、ふわりと微笑んだ。
緊張などしていない。むしろ、前世で初日の舞台の幕が上がる直前に感じていたような、極上の高揚感が私の全身を満たしていた。
私が身に纏っているのは、真珠色のシルクに、お母様の形見である繊細な『白薔薇のレース』をふんだんにあしらったドレス。
胸を潰す晒しはもうない。コルセットで美しく引き締められたウエストラインと、計算し尽くされたメイク。
今の私は、王太子の側近見習い『リオン』ではない。
正真正銘の、ローゼンフェルト伯爵家長女、リリアーナだ。
「では、行こうか。我が家の誇り高き令嬢よ」
案内役の声と共に、大広間へ続く重厚な扉が開かれた。
お父様にエスコートされ、一歩、光の中へと足を踏み入れる。
――その瞬間。
大広間を包んでいた喧騒が、嘘のようにシンと静まり返った。
視線。
数百人もの貴族たちの視線が、一斉に私へと突き刺さる。
驚愕、感嘆、そして抗いようのない魅了の眼差し。
ドレスの美しさだけではない。前世から培ってきた、見られることを前提とした完璧な姿勢、歩き方、そして視線の流し方。
それらすべてが融合し、私はこの大広間という巨大な舞台の、完全な『ヒロイン』として君臨していた。
(最高。……やっぱり、ドレスを着て光を浴びるのは最高だわ)
私は、湧き上がる歓喜を優雅な微笑みの下に隠し、ゆっくりと広間の中央へと進んだ。
しかし、その至福の時間は、下世話な声によって無惨にも切り裂かれた。
「おお、リリアーナ! 我が愛すべき姪よ、美しいデビューおめでとう!」
人垣を割って現れたのは、分家当主である叔父ベルナールだった。
そしてその隣には、派手な金糸の刺繍が入った趣味の悪い夜会服を着て、脂ぎった顔に下卑た笑みを浮かべている恰幅の良い男の姿があった。
「ごきげんよう、叔父様」
私は、立ち止まり、一切の感情を交えずに浅く一礼した。
お父様が、不快感を隠しきれない顔で一歩前に出ようとするのを、私は扇を持った手でそっと制した。
大丈夫。この程度の三流の悪役、私一人で十分だ。
「リリアーナ。お前に、素晴らしい方を紹介しよう。ゴメス男爵だ」
叔父は、周囲の貴族たちにも聞こえるような大きな声で言い放った。
「男爵は、領地の鉱山開発で莫大な富を築かれた、今最も勢いのあるお方だ。……実はな、皆様! 今宵、この素晴らしい白薔薇舞踏会の場で、我が姪リリアーナとゴメス男爵の婚約を発表させていただくことになったのだ!」
大広間が、ざわっ、とどよめいた。
デビューのその日に、年端もいかない美しい令嬢が、悪評高い成金男爵と婚約する。
誰もが「借金のカタに売られたのでは」と邪推するような、最悪の既成事実の捏造だった。
「お初にお目にかかります、リリアーナ嬢」
ゴメス男爵が、脂ぎった手で私の手を取ろうと、無遠慮に距離を詰めてきた。
その目には、美しい人形を手に入れた下品な欲望がギラギラと渦巻いている。
(ふふっ。前世の、やたらと距離感が近くて偉そうだった悪徳スポンサーのおじ様たちに比べれば、随分と可愛らしいこと)
私は、一切動揺することなく、扇をスッと広げて男爵の手を遮った。
ピシャリ、という小気味よい音が響く。
「……おや?」
「ゴメス男爵。そして叔父様」
私は、可憐な令嬢のトーンを崩さないまま、しかし広間の隅々にまで通る美声で、はっきりと告げた。
「お言葉ですが、私はそのようなお話、一切存じ上げておりませんわ。……伯爵家当主である父も、もちろん初耳のようですし」
「なっ……リリアーナ、照れることはない。これはお前のためを思って私が……」
「私のため、ですか?」
私は、小首を傾げ、極上の『冷ややかな微笑み』を浮かべた。
「公の場であるこの白薔薇舞踏会で、当主の許可もなく、未婚の令嬢の同意すら得ていない不確かな婚約を大声で触れ回る。……それが、私のためになる振る舞いだと、本気でおっしゃるのですか?」
「うっ……」
「このような神聖なデビューの場で、レディの顔に泥を塗るような非常識な行いをされる方が、我が分家の当主だとは。……あまりの浅慮に、悲しみで胸が張り裂けそうですわ」
私は、扇で目元を隠し、深くため息をついた。
完璧な悲劇のヒロインの演技。
周囲の貴族たちの視線が、一瞬にして叔父とゴメス男爵に対する「侮蔑」と「冷笑」に変わるのを感じた。
「き、貴様っ……! 分家をコケにする気か!」
周囲の冷ややかな空気に焦ったのか、ゴメス男爵が顔を真っ赤にして激昂した。
「親戚が良かれと思って用意した縁談を無下に断るとは、なんて生意気な小娘だ! 俺に恥をかかせる気か!」
怒声と共に、男爵が太い腕を振り上げ、強引に私の肩を掴もうと突進してきた。
「リリアーナ!」
お父様が叫ぶ。
だが、私にとってはスローモーションのような動きだった。
私は、男装の『リオン』の時のように、前に出て相手を叩きのめすような真似はしない。
今日は、可憐なドレスを着た『お姫様』なのだから。
――ふわり。
私は、ドレスの裾が最も美しく翻る角度を計算し、半歩だけ、滑るように後ろへステップを踏んだ。
男装の殺陣ではなく、前世の舞台で娘役たちが実践していた『優雅に躱す身のこなし』だ。
「うおっ!?」
獲物を捉え損ねたゴメス男爵は、完全に重心を失い、誰もいない空間へと前のめりに倒れ込んだ。
ドタンッ!!
派手な音を立てて、大理石の床に這いつくばる男爵。
私は、その惨めな姿を、扇越しに冷たく見下ろした。
「……お足元には、十分お気をつけくださいませ。男爵様」
静まり返った大広間に、私の澄んだ声だけが響き渡る。
数秒の後。
パチパチパチ……。
誰からともなく、拍手が沸き起こった。
それは瞬く間に広がり、下劣な男たちを自らの品格と話術だけで優雅に退けた私への、惜しみない称賛の拍手となった。
「素晴らしい身のこなしだ」
「あのような男たちに臆さないとは、なんという気高さ」
貴族たちの感嘆の声に包まれながら、叔父とゴメス男爵は顔を真っ青にし、這々の体で人混みの奥へと逃げ出していった。
(勝った……! 私一人で、私の舞台を守り抜いたわ!)
胸の奥から、熱い達成感が込み上げてくる。
私は、誰の助けも借りず、剣も力も使わずに、完璧な『令嬢』としての戦いに勝利したのだ。
――プァァァァァンッ!!
その時、大広間の空気を一変させる、華やかで荘厳なファンファーレが鳴り響いた。
「王太子、アレクシス殿下の御成り!!」
案内役の高らかな声と共に、重厚な扉が開き、この国の次期国王が姿を現した。
純白の夜会服に、王族の証である青いサッシュを纏ったアレクシス殿下。
その歩みは一切の迷いがなく、月光のような銀髪と、鋭くも熱を帯びた青灰色の瞳が、一直線に私を射抜いていた。
群衆が、舞台の幕が開くように左右へ割れ、王太子のための道を作る。
コツ、コツと。
静寂の中、殿下の足音だけが近づいてくる。
そして、私の目の前で立ち止まると、殿下は一切の躊躇いなく、ひざまずいて私の右手をそっと取った。
「遅くなってすまない。……待たせたな、私の姫」
甘く、鼓膜を直接震わせるような低音。
手のひらに落とされる、羽のように軽い口付け。
大広間が、先ほどとは比べ物にならないほどの、熱狂的なため息とどよめきに包まれた。
私は、顔が薔薇色に染まっていくのを感じながら、心からの微笑みを彼に向けた。
縁談は粉砕した。私が一番輝く舞台は、完全に整えられた。
さあ、殿下。私たちの、秘密と共犯に満ちた極上のファーストダンスを、世界に見せつけてやりましょう。




