第33話 君はどうしたい?
叔父ベルナールが、私の白薔薇舞踏会でのデビューを狙って、悪徳貴族との強引な縁談を企てている。
侍女のミレーヌからその報告を受けた翌日、私は王太子専用の執務室で、書類の山と格闘していた。
(本当に、あの叔父はどこまでも私の夢の邪魔をしてくれるわね)
羽ペンを走らせながら、内心で舌打ちをする。
舞踏会という大勢の貴族が集まる公の場で、分家当主という立場を利用して相手を引き合わせ、断れない状況を作って婚約を承諾させる。私の持参金と、本家への影響力を手に入れるための、絵に描いたようなゲスな算段だ。
「……おはようございます、殿下。本日の午後の視察の資料、こちらにまとめておきました」
私は、出仕してきたアレクシス殿下に向かって、完璧な角度で頭を下げ、とろけるような『貴公子の微笑み』を向けた。
内心の苛立ちは微塵も表に出していない。前世のトップスターとしてのプライドにかけて、どんなトラブルを抱えていようと、舞台の上では完璧な王子様でいるのが私の信条だ。
しかし。
アレクシス殿下は、私が差し出した資料を受け取ろうともせず、じっと私の顔を見つめてきた。
「……リオン。いや、二人きりの時はリリアーナと呼ぶと約束したな」
殿下は、青灰色の瞳を細め、静かな声で言った。
「今日の君の微笑みは、完璧すぎて隙がない。ひどく冷たい作り物めいている。……何があった」
「えっ……」
私は思わず言葉を詰まらせた。
顔の筋肉の動かし方ひとつ違えていないはずなのに。この人は、私の心の奥底の微かな強張りすら、見抜いてしまうというのか。
「……恐れ入ります、殿下。少し、家のことで厄介ごとが起きただけでして」
「話してみろ。私たちは、共犯者になったはずだろう?」
殿下にそう促され、私は観念して小さく息を吐いた。
そして、叔父が私の白薔薇舞踏会を狙って、持参金目当ての縁談を仕組もうとしていることを、淡々と説明した。
聞き終えた殿下の顔から、スッと表情が消えた。
部屋の温度が数度下がったかのような、凄まじいまでの冷気と怒気が、殿下の全身から立ち上る。
「……あの愚か者は、どこまで君を、君の夢をコケにすれば気が済むのだ。すぐに第一騎士団を動かし、その悪徳貴族もろとも叔父を捕縛し……」
「お待ちください、殿下。権力で強引にねじ伏せれば、かえってローゼンフェルト家の名折れとなります」
私は、殺気を放つ殿下を宥めるように微笑んだ。
「ご安心ください。私はこの三か月間、殿下の側近として厳しい修羅場を潜り抜けてまいりました。叔父の企みなど、舞踏会の場で私の完璧な立ち回りと話術によって、木っ端微塵に砕いてご覧に入れます。……相手に恥をかかせつつ、私が優位に立つシナリオは、既に頭の中で組み上がっておりますゆえ」
そう。私には前世で培った舞台度胸と、臨機応変な対応力がある。
どんな嫌がらせをされようが、逆に相手をやり込めて、観客(貴族たち)の喝采を浴びる自信があった。
――だが。
私の言葉を聞いた殿下は、安心するどころか、ひどく悲しそうな顔をした。
殿下は執務机を回り込み、私の目の前で立ち止まると、両手で私の肩をそっと包み込んだ。
「私は、君がどう戦うかを聞いているのではない」
「……え?」
「君は、本当はどうしたいんだ? リリアーナ」
低く、甘く、そして私の魂の奥底まで届くような、優しい問いかけ。
「どうしたいって……それは、叔父の陰謀を潰して……」
「そうじゃない。君が『やらなければならないこと』ではなく、君が『心から望んでいること』だ」
殿下の大きな手が、私の頬をそっと撫でる。
「君はいつも、完璧な王子様として振る舞い、誰かを助け、誰かを守り、一人で解決しようとする。……だが、あの夜、瑠璃色のドレスを着て私の腕の中にいた君は、ただただ純粋に、舞踏会の光を楽しんでいたはずだ」
その言葉に、私の胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
『君は、本当はどうしたい?』
前世でも、今世でも。
そんなことを、私に真っ直ぐに聞いてくれた人なんて、誰もいなかった。
私はいつも『完璧なトップスター』であることを求められていた。
手を差し出し、甘い言葉を囁き、娘役を輝かせるための立派な柱。それが私の役割であり、私の存在価値だった。
誰も、柱である私自身が「何に憧れているのか」なんて、気にも留めなかった。
「私、は……」
声が、震えた。
一度溢れ出した感情は、もう分厚い仮面の下に押し込めることはできなかった。
「私だって……私だって、本当は戦いたくなんてありません……っ!」
私の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
「前世の記憶でも、私はずっと王子様役でした。誰かを守って、エスコートして、格好良く微笑んで。……誇りには思っていたけれど、本当は、ずっと寂しかったんです。羨ましかったんです」
私は、殿下のシャツの胸元をギュッと握りしめ、子どものように泣きじゃくった。
「可憐なドレスを着たかった! 重い責任なんて背負わずに、誰かに守られて、優しく手を取られて、『綺麗だね』って言ってもらえる……そんな、お姫様になりたかったんです……!」
それが、私のたった一つの、ちっぽけで、切実な夢だった。
「せっかく令嬢に生まれ変わって、お母様との思い出のドレスを着て、やっとお姫様になれると思ったのに。なんでまた、私が男装して、剣を振って、誰かを守らなきゃいけないんですか。……私、もう王子様は嫌です……っ」
ボロボロと涙を流し、鼻をすする私。
完璧な側近の姿など、そこには欠片もなかった。ただの、夢を邪魔されて泣いている、年相応の女の子の姿だ。
殿下は、何も言わずに、ただ静かに私の涙を受け止めてくれていた。
やがて、私の泣き声が少し落ち着いた頃。
殿下は、私の背中に腕を回し、自分の胸の中にすっぽりと私を閉じ込めるように、深く、強く抱きしめた。
「……そうか。君もずっと、望まぬ役割(王子様)を演じさせられていたのだな」
殿下の声は、ひどく温かく、そして痛みに満ちていた。
「幼い頃から『完璧な王太子』であることを求められ、失敗を許されず、息を詰まらせていた私と同じだ。……君がこれほどまでに私の心を満たす理由が、今、はっきりと分かった」
殿下の大きな手が、私の金色の髪を優しく撫でる。
「よく頑張ったな、リリアーナ。もう、強がらなくていい。一人で完璧な王子様を演じる必要はない」
「殿下……」
「君の願いは、私が守る」
殿下は、私を抱きしめたまま、揺るぎない決意を込めた声で宣言した。
「君の叔父の企みなど、君のドレスのフリル一つにすら触れさせはしない。白薔薇舞踏会の夜、君はただ、世界で一番美しい『お姫様』として、光の真ん中に立てばいい」
私の頬を伝う涙を、殿下の長い指がそっと拭う。
そして、青灰色の瞳が、甘く、情熱的な光を放って私を見つめた。
「君の最初の一曲も、君の未来も……誰にも奪わせはしない。私が、必ず君の手を取る」
その言葉は、私が前世からずっと待ち望んでいた、世界で一番甘い魔法の呪文だった。
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、今世で初めて、心からの『リリアーナとしての笑顔』を、彼に向けて咲かせたのだった。




