第31話 私はリリアーナです
「……私の腕の中で、せいぜい私を頼りにしてくれ、私の可愛い男装令嬢」
暖炉の火が静かに揺れる、王太子殿下の私室。
アレクシス殿下の甘い囁きと、背中を包み込む大きな手の温もりに、私の頭の中は完全にショートしかけていた。
(溺愛? 一生をかけて? 私を!?)
王宮を欺くという大罪がバレたというのに、なぜか処刑されるどころか、王太子殿下直々の『溺愛ルート』に強制エントリーさせられている。
前世からずっと夢見ていた「王子様に手を取られるお姫様」のシチュエーションが、男装がバレた密室で、しかも相手がこの冷徹で完璧な王太子殿下だなんて。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど高鳴っているが、私は必死に理性の端を掴み留めた。
「で、殿下……お言葉は、大変……その、ありがたく存じますが……」
私は、殿下の胸板に手を当て、ゆっくりと、けれど確かな意思を持ってその腕の中から抜け出した。
「どうした? まだ私を信じられないか」
殿下が、微かに寂しそうな、それでいて熱情を隠しきれない青灰色の瞳で私を見つめる。
「違います。殿下のお心の広さには、感謝してもしきれません。……ですが、私はまだ、殿下に自分の口から、本当のことを何も申し上げておりません」
私は、一歩下がり、居住まいを正した。
そして、漆黒の男物の礼服に身を包んだまま、右足を後ろに引き、膝を深く折った。
背筋を伸ばし、両手で仮想のドレスの裾をつまみ上げるようにして、頭を下げる。
それは、貴公子リオンとしての臣下の礼ではなく、完璧な令嬢としての『カーテシー(淑女の礼)』だった。
「私は、ローゼンフェルト伯爵家長女、リリアーナと申します」
静かな部屋に、私の本来の声――無理に低く作っていない、少し高めの、令嬢としての声が響いた。
「王室を欺き、殿下を騙し続けてきた大罪、いかようにも罰をお受けする覚悟です。ですが、どうか理由だけは、聞いていただきたく存じます」
私が顔を上げずにそう告げると、頭上から「……顔を上げなさい。罰しないと言ったはずだ」という、ひどく優しい声が降ってきた。
私は恐る恐る顔を上げ、殿下の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「私の双子の兄、本物のリオンは、私の最初の宮廷茶会の前夜に突然姿を消しました。王宮への初出仕をすっぽかせば、我が家は取り潰しになりかねません。ですから私は、兄が見つかるまでの『三か月』という期限付きで、父と契約を交わし、兄の身代わりとしてこの王宮へ上がったのです」
「……なるほど。ローゼンフェルト伯爵も、随分と無茶な策に出たものだな。しかし、いくら双子とはいえ、妹を男装させて王宮へ送り込むとは」
殿下が、呆れたように小さく息を吐く。
「はい。私も最初は、無責任に逃げ出した兄を恨んでおりました。私の……一生に一度の、可憐なドレスを着てデビューする夢の舞台を、台無しにされたと思って」
私は、ギュッと拳を握りしめた。
「ですが、違ったのです。数日前、兄から密かに手紙が届きました」
そこから私は、兄の手紙に記されていた恐るべき真実を、殿下に全て打ち明けた。
兄が、宰相府による王宮地下の古代遺物を用いた資金洗浄と、私兵の育成計画という『王室転覆の陰謀』を偶然にも掴んでしまったこと。
口封じのために家族に累が及ぶのを防ぐべく、自らが囮となって国境へ向かい、宰相派の目を引きつけていること。
そして、私が王宮に『リオン』として存在し続けることが、我が家が健在であるというアピールになり、宰相派への牽制になっているということ。
「……それが、全ての真実です」
語り終えた時、私の手のひらにはびっしりと汗が滲んでいた。
私と家族は、結果的に国家の転覆を防ぐために動いているとはいえ、手段として王宮を騙していたことには変わりない。
次期国王であるアレクシス殿下からすれば、許しがたい越権行為であり、不敬と捉えられても仕方がない。
(怒られる。呆れられる。……『王太子』としての責務を口にされる)
私は、どんな叱責の言葉が降ってくるかと、ギュッと目を瞑り、身を固くした。
しかし。
沈黙の後、私の耳に届いたのは、予想だにしない言葉だった。
「……そうか。君が、君の家族が、無事でよかった」
「え……?」
私は、驚いて目を開けた。
アレクシス殿下は、怒るでもなく、王室の威信を説くでもなく。
ただただ、心底ホッとしたような、痛みを伴うような表情で、私を見つめていたのだ。
「で、殿下……? 王室を欺いたのですよ? 宰相の陰謀を、勝手に隠蔽していたのですよ?」
「そんなことは、今はどうでもいい」
殿下は、ゆっくりと歩み寄り、私の両肩を大きな手でそっと包み込んだ。
「君は、そんな恐ろしい陰謀の渦中に、たった一人で……いや、兄の代わりとして、矢面に立たされていたのか。私がのんきに君の所作に感心し、ダンスの相手をさせている間にも、君はいつ暗殺者の刃が向くか分からない恐怖と戦っていたというのか」
「それは……」
「すまない、リリアーナ。私がもっと早く君の異変に気づき、寄り添うことができていれば、君にこんな重荷を背負わせることはなかった」
殿下の声は、微かに震えていた。
その言葉には、王太子としての建前など一切ない。
ただ一人の男性として、愛する女性を守れなかった己の不甲斐なさに対する、深い後悔と痛切な反省が込められていた。
(殿下……)
胸の奥が、ジンと熱くなった。
前世でも、今世でも。
私はずっと、『理想の王子様』であることを求められ、誰かに頼られるばかりだった。
誰も、私の内側にある「怖さ」や「重圧」を、本当の意味で理解して、労ってくれる人はいなかった。
でも、目の前にいるこの人は違う。
私の被っていた完璧な仮面を剥ぎ取り、その下にある事情ごと、全てを受け止めようとしてくれている。
ふぅ、と。
私は、男装生活を始めてからずっと張り詰めていた肩の力が、初めて少しだけ抜けるのを感じた。
ここにはもう、完璧な貴公子を演じる必要はないのだ。
この私室の中だけは、私が『リリアーナ』として息をしてもいい場所なのだと。
だが、安堵と同時に、私の中の『一番醜い恐怖』が首をもたげた。
罰せられないことは分かった。
事情も理解してもらえた。
だが、果たして本当に、『それだけ』で受け入れてもらえるのだろうか。
「……殿下」
私は、俯き加減になりながら、震える声で問いかけた。
「私は、女です。……女でありながら、こうして男の服を着て、胸を潰し、低い声を作り、まるで本物の男のように振る舞ってきました」
ギュッと、自分の礼服の裾を握りしめる。
「第一騎士団の演習場では木剣を振り回し、令嬢たちに甘い言葉を囁き、時には敵を罠に嵌めるような真似もしました。……可憐な令嬢とは程遠い、こんな……こんな不気味な私を」
私は、顔を上げることができなかった。
前世で男役だったことは言えないが、この世界の常識からすれば、私のやってきたことは『令嬢にあるまじき異常な振る舞い』だ。
いくら家のためとはいえ、そんな私を、未来の王妃として隣に置きたいと本気で思う男が、果たしているのだろうか。
「私を……軽蔑なさらないのですか?」
消え入りそうな声で、私は最後にそう絞り出した。
沈黙が、痛い。
殿下の大きな手が、私の肩から離れる気配がして、私は絶望に目を閉じた。
――しかし。
次の瞬間、私の頬は、優しく、ひどく熱い両手によって包み込まれ、強引に上を向かされた。
「軽蔑?」
至近距離で私を覗き込む青灰色の瞳は、少しの怒りと、それ以上の途方もない熱情で燃えていた。




