第30話 王太子の私室で全てが暴かれました
カチャン、と。
背後で、重厚なマホガニーの扉が閉まる音が静かに響いた。
王宮の奥深くにある、王太子アレクシス殿下の私室。
昼間の執務室とは違い、そこは厚手の絨毯が敷き詰められ、暖炉の火が赤々と部屋を照らす、完全にプライベートな空間だった。
私は、漆黒の礼服の襟を無意識に正しながら、部屋の中央に立ち尽くしていた。
心臓が、耳の奥でうるさいほどの爆音を立てて鳴り響いている。
手足の先が、緊張のあまり氷のように冷たくなっていくのが分かった。
「……よく来たな、リオン。いや、そう呼ぶのも、もう終わりにすべきか」
暖炉の前に佇んでいたアレクシス殿下が、ゆっくりと私の方へと向き直った。
上着を脱ぎ、白いシルクのシャツ姿になった殿下は、恐ろしいほどに美しかった。
月光のような銀髪が炎の光を浴びて淡くきらめき、その青灰色の瞳には、昼間の比ではないほどの、濃密な熱情と所有欲の光が揺らめいている。
「殿下、お召しにより参上いたしました。……先ほどの執務室での奇妙なお疑いについてですが、やはり私の説明が不足していたようで……」
私は、前世の星都歌劇団のトップスターとしてのプライドを全てかき集め、完璧な貴公子の微笑みを顔に張り付けた。
まだだ。まだ諦めてはいけない。
ここでボロを出さずに言い張れば、王太子といえども確証はないはず……。
「まだそんな仮面を被り続けるつもりか、君は」
殿下が、静かに一歩、私に向かって歩みを進めてきた。
その歩様には、一切の迷いがない。獲物を確実に追い詰める、気高き肉食獣のそれだった。
「双子だから歩幅が同じだという言い訳は、もう通用しないと言ったはずだ。……君のあの、誰かを庇う時に『半歩前に出る』癖。そして、ダンスの時に相手を包み込むような、あの独特の手首の返し方」
殿下が再び一歩、距離を詰める。
圧倒的な長身から見下ろされる圧迫感に、私の呼吸が自然と浅くなる。
「それだけではない。君が私に触れる時の、その微かなためらい。昨夜、あの仮面舞踏会で瑠璃色のドレスを纏った令嬢を抱きしめた時、私は確かに感じたのだ。……衣服の厚みこそ違えど、その華奢な骨格も、私の腕の中にすっぽりと収まるそのサイズも、君と全く同じだと」
「それは……私が男としては少々、小柄だからでございます……っ」
私は椅子の背にぶつかるまで後退し、かすれた声で必死に反論した。
しかし、殿下は私の目の前でピタリと足を止めると、逃がさないように私の両手首を掴み上げた。
「なっ……殿下!?」
「私の目を真っ直ぐに見ろ、リオン」
低く、地を這うような、しかし抗いがたい威厳に満ちた声。
私は、拒絶できずに、殿下の青灰色の瞳を正面から見つめ返した。
そこにあるのは、冷徹な疑惑ではない。私という人間を、丸ごと剥ぎ取って手に入れようとする、剥き出しの恋情だった。
「君が、ローゼンフェルト伯爵令嬢、リリアーナ嬢本人だな」
――ドクン。
頭の中で、何かが完全に弾け飛ぶ音がした。
ついに、言われてしまった。
どんなに前世の演技力を駆使しても、どんなに完璧な言い訳を用意しても、この男の鋭すぎる直感と理詰めの前には、私の男装など薄い紙切れ一枚ほどの意味もなさなかったのだ。
「私は……私は、男で……っ」
「まだ言うか」
殿下は、私の手首を掴んでいた手を離すと、そのまま私の腰へと力強く腕を回し、自分の胸元へと一気に引き寄せた。
「ひゃっ!?」
ドン、と頑丈な胸板に私の身体がぶつかる。
男装用の晒しで潰しているとはいえ、密着した身体のラインからは、お互いの体温が恐ろしいほどの勢いで混ざり合っていくのが分かった。
殿下は、私の耳元に顔を近づけ、低く甘い声で囁いた。
「昨夜、あのドレスの君を抱きしめた時の感覚を、私の肉体が、肌が、全て覚えている。君の手の温もりも、驚いた時に跳ね上がるその心臓の鼓動も……今、私の腕の中にいる君と、完全に一致しているんだ」
「……っ」
「これでもまだ、違うと言い張るのか? リリアーナ」
自分の本当の名前を、殿下の唇から呼ばれた瞬間。
私の中にあった『側近リオン』の仮面が、音を立てて粉々に砕け散った。
私は、殿下の胸元に両手を当てたまま、ガタガタと身体を震わせるしかなかった。
終わった。完全に終わった。
王室を欺き、男装して王宮に出仕していたことがバレた。これでローゼンフェルト家は取り潰し、お父様も私も、最悪の場合処刑される……。
「……お、お許し、ください……殿下……」
私は、恐怖のあまり視界が涙で潤むのを感じながら、小さな声で呟いた。
前世のトップスターの威厳もクソもない。今の私は、ただの、正体がバレて怯えるだけの哀れな令嬢だった。
「家を……お父様を、罰しないでください。私が……私が勝手にやったことです……っ」
ポロポロと、目元から涙が零れ落ちる。
しかし、私の破滅を覚悟した言葉に対して、アレクシス殿下から返ってきたのは、意外すぎる反応だった。
「……ふっ、ははは!」
殿下は、私の頭の上で、低く愉しげに笑声を上げたのだ。
「え……?」
私が驚いて涙目のまま顔を上げると、殿下はひどく愛おしそうに目を細め、私の頬に伝わる涙を、その大きな親指で優しく拭ってくれた。
「私が、君や君の家を罰するとでも思ったか? そんなことをするわけがないだろう」
「でも、私は王室を騙して……」
「君がどのような理由で男装し、兄の身代わりをしていたのか、私にはまだ分からない。だが、そんなことはどうでもいいのだ」
殿下は、私の腰に回した腕の力を緩めることなく、さらに至近距離で私の瞳を覗き込んできた。
「私が惹かれたのは、ローゼンフェルト家の跡取りという『記号』ではない。……私の前に現れ、完璧な所作で周囲を魅了し、不器用な私にダンスを教え、弟や婚約者候補の心を救ってみせた――君という、たった一人の人間なのだから」
ドキン、と。
心臓が、先ほどとは全く違う理由で、激しく脈打ち始めた。
「君が男だろうが女だろうが、私は君を私の側に置くと決めていた。……だが、君が昨夜のあの美しい令嬢だと分かった時、私がどれほど歓喜したか、君には分かるまい」
殿下の青灰色の瞳に、とろけるような甘さと、底なしの溺愛の光が宿る。
「君が女なら、何の問題もない。私は君を、誰にも渡さない。私の本物の『姫』として、一生をかけて溺愛してあげるだけだ」
(ええええええええーーーっ!?)
私は、内心で特大の悲鳴を上げた。
罰せられない。それは最高にありがたい。
だが、その代わりに待っていたのは、王太子殿下からの、逃げ場のない『本気の溺愛ルート』への強制突入だった。
前世でずっと夢見ていた「王子様に手を取られるお姫様」というシチュエーション。
まさか、男装がバレた王太子の私室で、こんなにも不器用で情熱的な形で叶うなんて、誰が想像できただろうか。
「……殿下、あの、私は……」
「リリアーナ。君のその可愛い反論は、後でいくらでも聞いてあげる。……だが、今は一刻を争う」
殿下は、ふっと表情を引き締め、いつもの有能な『王太子』の顔へと戻った。
しかし、私を抱きしめる腕の手のひらだけは、優しく私の背中を撫で続けている。
「君の正体は、私が全力で秘匿しよう。白薔薇舞踏会の日まで、君は王宮では完璧な『リオン』として振る舞うといい。……だが、その裏で、私たちはもう一つの『契約』を結ぶ」
「契約、ですか?」
「ああ。宰相府の陰謀を叩き潰し、君の兄を救い出すための、二人の秘密の共同戦線だ」
殿下は、私の右手を引き寄せ、その指先に、誓いを立てるように深く口付けを落とした。
「私の腕の中で、せいぜい私を頼りにしてくれ、私の可愛い男装令嬢」
秘密を共有した、王太子と私。
最悪の正体バレから始まった夜は、まさかの共闘関係と、重すぎる溺愛の始まりを告げていた。
私は、顔を真っ赤に染めながら、これからの怒涛の展開に、ドレスを着るよりも激しく胸を高鳴らせるのだった。




