第29話 半歩前に出る癖
「……おや、リオン。今日は一段と顔色が優れないな。もしや、昨夜はよく眠れなかったのか?」
王宮の執務室。
デスクの向こう側から、アレクシス殿下が優雅に羽ペンを走らせながら、楽しげな声で問いかけてきた。
「ええ、おかげさまで。昨夜、我が家に『王太子殿下からの個人的な贈り物』が山のように届きまして、その対応に追われておりましたゆえ」
私は、能面のような笑顔を顔に貼り付けたまま、手元の書類にインクを押し付けた。
昨夜の出来事を思い出すだけで、胃がキリキリと痛む。
『ローゼンフェルト伯爵令嬢、リリアーナ嬢へ』と宛名が書かれた、最高級の薔薇のブーケ、宝石箱、そして情熱的な言葉が綴られた分厚い手紙。
アレクシス殿下は、仮面舞踏会で出会った『瑠璃色の令嬢』が私の妹のリリアーナだと確信し、ついに本気のアプローチを開始したのだ。
「殿下。過保護な兄として申し上げますが、顔も合わせていない妹へのあのような過分な贈り物は、少々困惑いたします」
「そうか? 私はただ、仮面舞踏会で私を魅了した美しいレディへ、純粋な敬意と好意を示したまでだが」
殿下は悪びれる様子もなく、涼しい顔で言い放つ。
(敬意と好意って……相手、目の前にいる男装の側近なんですけどね!?)
私は内心で盛大にツッコミを入れながら、深くため息をついた。
兄のリオンが囮となって命懸けで宰相派と戦っているというのに、私は王宮で王太子からの重すぎる爆撃を回避し続けなければならない。私の身代わり生活は、シリアスとラブコメの反復横跳びで構成されているらしい。
「ところで、リオン」
不意に、殿下の声のトーンが、一段階低く、静かなものに変わった。
羽ペンを置き、両手を組んで私を真っ直ぐに見つめる。
「君は……誰かを守ろうとする時、必ず『半歩前に出る』癖があるな」
「……へ?」
予想外の角度からの指摘に、私は思わず間抜けな声を漏らした。
「私が暗殺者に狙われた時も、君は考えるより先に、私の斜め前に立って剣を抜いた。第二王子であるジュリアンが貴族たちに嫌味を言われていた時も、君は彼の『半歩前』に滑り込んで、言葉の盾になった」
殿下の青灰色の瞳が、獲物を追い詰める鷹のように鋭く私を射抜いている。
「それは……側近として、主君や王族の皆様をお守りするのは当然の振る舞いかと」
「ただ前に出るのではない。君の立ち位置は、常に相手を背後に庇いつつ、相手の視界を遮らない絶妙な角度だ。……まるで、守る相手を一番美しく見せるために計算し尽くされたかのような、完璧な立ち位置」
ヒュッ、と喉の奥で息が鳴った。
半歩前に出る。
それは、前世で私が男役トップスターとして舞台に立っていた時、娘役を庇い、彼女たちにスポットライトが最も美しく当たるようにと、骨の髄まで叩き込まれた『立ち位置の黄金比』だった。
頭で考える前に、身体が勝手にそのポジションを陣取ってしまう、完全な職業病だ。
「それがどうかされましたか。護身術の訓練の賜物です」
「そうだろうな。……だが、不思議なことがあってね」
殿下は、ゆっくりと立ち上がり、私のデスクの方へと歩み寄ってきた。
コツ、コツと響く革靴の音が、死刑宣告へのカウントダウンのように聞こえる。
「夜会で出会った、あの瑠璃色の令嬢。……君の妹君も、君と全く同じだった」
「……っ!」
心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
「夜会の片隅で、卑劣な男に絡まれていた若い令嬢を助けた時。彼女は扇を片手に、怯える令嬢の『半歩前』に滑り込んだ。君と全く同じ歩幅で、全く同じ角度で、だ」
(見られてた……! あの時、遠くから見られてたのね!?)
私は、仮面舞踏会での自分の軽率な行動を呪った。
困っている令嬢を見捨てられず、ついお節介な男役スイッチを入れて助けてしまったあの瞬間。
アレクシス殿下は、その一部始終をその恐ろしい観察眼で逃さず見ていたのだ。
「ふ、双子ですから! 幼い頃から同じように育ちましたゆえ、歩幅や癖が似てしまうのは当然のことです!」
私は、昨日使ったばかりの『双子だから何でも同じ設定』という苦しい言い訳を、再び引っ張り出した。
しかし、殿下は止まらなかった。
「ただ似ているというレベルではない。相手を安心させる時の、手の取り方。そして、相手を牽制する時の、有無を言わさぬ声の響きと視線の流し方。……どれも、私が知っている『リオン』そのものだった」
殿下の顔が、近づく。
逃げ場のない執務室で、私は椅子の背もたれに背中を押し付けることしかできない。
「君は、一卵性の双子並みに骨格や癖が瓜二つだと言ったな。だが、男女の双子で、あそこまで筋肉の動かし方や重心の置き方まで完全に一致するものなのか? ……まるで、同じ人間が、服だけを着替えているかのように」
――チェックメイト。
その言葉が、私の脳裏に冷たく閃いた。
殿下は、もう単なる直感や錯覚で疑っているのではない。
数々の証拠と違和感を理詰めで組み立て、「リオン=瑠璃色の令嬢」というたった一つの真実に、完全に手をかけているのだ。
(もう、隠し切れない……)
私は、ギュッと唇を噛み締めた。
これ以上、下手な嘘を重ねれば、かえって疑念を決定的なものにしてしまう。
前世の演技力を総動員しても、この頭の切れる王太子の理詰めを突破することは、もはや不可能に近い。
「殿下、私は……」
私がかすれた声で何かを言いかけた、その時。
殿下は、執務室のドアを一瞥し、周囲に誰もいないことを確認した。
そして、私のデスクに両手をつき、逃がさないように顔を近づけて、ひどく低く、静かな声で告げた。
「ここでは、誰かに聞かれるかもしれないな」
「え……?」
「今夜、誰にも見られない場所で話がしたい。……私の私室へ来い、リオン」
それは、側近に対する命令の形をとった、最後通牒だった。
背筋を、氷のような悪寒が駆け抜ける。
王太子殿下の私室。誰の目も届かない、完全な密室。
そこで行われるのは、間違いなく、私の男装の秘密に対する最後の尋問だ。
「……かしこまり、ました。殿下」
私は、絶望と諦めが入り混じった声で、ただ頷くことしかできなかった。
私の平穏無事な三か月という計画は、今夜、王太子殿下の私室で完全に終わりを迎えるのだと、私はドレスを着るよりも強い恐怖に震えながら悟ったのだった。




