第26話 昨夜の令嬢の話を本人にするのはやめてください
「……あの、殿下。本当に、今夜もダンスの練習をされるのですか?」
夜の王宮、人気のない小サロン。
暖炉の火が静かに爆ぜる部屋の中で、私は漆黒の礼服に身を包み、アレクシス殿下の前に立っていた。
手には、先ほど殿下から手渡されたばかりの、練習用の木剣……ではなく、ただの白い手袋。
私の胃は、朝から引き続き、きりきりと痛みを訴え続けていた。
無理もない。
ほんの数十時間前、私はこの同じ王宮の仮面舞踏会で、男装を解いて瑠璃色のドレスを纏い、可憐な令嬢『リリアーナ』として、この目の前にいる王太子殿下と完璧なワルツを踊ったばかりなのだ。
あの時、手のひらから伝わってきた殿下の体温や、腰を抱き寄せられた時の力強い熱が、まだ肌に残っているような気がしてならない。
そんな状態で、今度は『側近リオン』として殿下と向かい合い、ダンスの練習相手を務めろだなんて、どんな精神修行だろうか。
「ああ。どうにも、数日前に君に教わった感覚が、昨夜を境に大きく変わってしまってな」
上着を脱ぎ、白いシャツ姿になったアレクシス殿下は、月光のような銀髪を少し揺らしながら、暖炉の前に佇んでいた。
その青灰色の瞳は、いつもの冷徹な仮面を外し、どこか遠くを愛おしむような、ひどく熱を帯びた光を湛えている。
「昨夜を境に、ですか……?」
私が恐る恐る尋ねると、殿下はふっと唇を緩め、私の方へと歩み寄ってきた。
「ローゼンフェルト。君には話しておこう。……昨夜の仮面舞踏会で、私は一人の奇跡のような令嬢に出会った」
ドクン、と。
私の心臓が、本日一番の大きな音を立てて跳ね上がった。
「奇跡の、令嬢……でございますか」
「ああ。夜空を溶かし込んだような、美しい瑠璃色のドレスを着たレディだ。彼女は東回廊の近くで一人、壁の花として佇んでいたのだが……その姿が、どうにも君から聞いていた、君の双子の妹君の面影に重なってな」
(うわああああああーーっ! やっぱりあの時、妹の仕業だって気づかれてた!?)
私は内心で絶叫し、顔に張り付いた『完璧な貴公子のポーカーフェイス』が剥がれ落ちそうになるのを必死に堪えた。
背中を冷たい汗がツーッと伝わっていく。
「そ、それは……奇遇ですね。私の妹のリリアーナも、瑠璃色をひどく好んでおりますゆえ。……それで、その令嬢と踊られたのですか?」
「ああ。一曲だけ、無理を言ってな」
殿下は、自身の大きな右手を見つめながら、陶酔したような笑みを浮かべた。
「素晴らしかった。まるで羽のように軽やかで、私のリードを全て、吸い込むように受け止めてくれた。何より驚いたのは……彼女から伝わってくる手の圧や、視線の誘導が、君が私に教えたエスコートの極意と、驚くほど酷似していたことだ」
「なっ……!」
「君が言っていた通りだったな。君をそこまで仕立て上げた妹君の『理想』。あの令嬢こそが、君の妹、リリアーナ嬢だったのではないかと思っている」
(違うの! 妹の理想に付き合わされたんじゃなくて、私本人が前世のスキルで踊ってただけなのよ!)
自分ででっち上げた「双子の妹の特訓」という言い訳が、あまりにも完璧に噛み合いすぎていて、逆に自分の首を絞めている。
私が完璧にリードを受け流して踊ってしまったせいで、殿下の中で「リオンを育てたリリアーナ=昨夜の瑠璃色の令嬢」という方程式が完全に完成してしまっていた。
「……リリアーナ嬢は、白薔薇舞踏会でデビューするのだろう? やはり、私は何が何でもその舞踏会に参加せねばならなくなった。あの美しい小鳥の正体を、この目で確かめるために」
殿下の瞳の奥に、執着を通り越した、狩人のような強烈な独占欲の炎が揺らめいている。
標的は、他でもない私だ。
(まずい。このまま白薔薇舞踏会を迎えたら、一瞬で正体がバレて家が取り潰される……!)
絶望的な未来に目眩がしそうになっていると、殿下は不意に、私の前に立って両手を広げた。
「さあ、リオン。あの令嬢と踊ったことで、私は『受ける側』の呼吸というものが少し分かった気がするんだ。忘れないうちに、君とステップを確認したい。……手を」
「は、はい……」
拒否権などない。私は覚悟を決め、殿下の左手に、自分の右手を重ねた。
そして、殿下の大きな右手が、私の腰へと回される。
ドン、と距離が縮まった。
シャツ越しに伝わる殿下の筋肉の硬さと体温。
それは、昨夜ドレス姿で感じたものと全く同じ、圧倒的な男の覇気だった。
「行くぞ」
殿下の合図とともに、私たちは音楽のないサロンでステップを踏み始めた。
いち、に、さん。いち、に、さん。
殿下のリードは、数日前とは比べ物にならないほど進化していた。
柔らかく、それでいて的確。私の呼吸を読み、半歩先を誘うような優しいエスコート。
それは確かに、私が教え、そして昨夜、私自身がドレス姿で心地よく受け止めた『理想の王子様』の動きそのものだった。
(上手になってる……。でも、だからこそ、危ないわ!)
殿下のリードが完璧になればなるほど、私の身体は無意識のうちに、それに合わせた最適な『娘役のステップ』を返そうとしてしまう。
足の出し方、手首のしなやかさ、そして殿下の動きを受け流す時の、独特の重心の移動。
――ピタリ。
数歩動いたところで、突然、殿下の動きが止まった。
「……っ」
私の心臓が、恐怖で凍りついた。
殿下の青灰色の瞳が、信じられないものを見るような、鋭い光を帯びて私を射抜いていた。
私の右手を握る殿下の指先に、ぎゅっと強い力が込められる。
「リオン……君の、この手首の返し方」
「え、あ……何のことでしょうか、殿下」
「昨夜の、あの瑠璃色の令嬢と……全く同じだ。いくら同じ特訓を重ねた双子とはいえ、肉体の反応、重心の預け方の癖まで、ここまで一致するものなのか……?」
(バレる……! 完全に勘付かれてるわ!)
私は、脳内で非常警報を最大音量で鳴り響かせた。
このまま普通に踊り続ければ、肉体の記憶を通じて、私が『昨夜の令嬢』であることが完全に露見してしまう。
「――ひゃっ!?」
私は、わざとらしく派手に足をもつれさせ、殿下の足を踏みつけるようにして、その胸元へと倒れ込んだ。
ドン、と殿下の胸板に顔がぶつかる。
「申し訳ありません、殿下! 足を滑らせてしまいました!」
私は慌てて距離を取り、不格好に頭を下げた。
男としての未熟さ、ダンスの下手さを演じることで、さっきの違和感を『ただの偶然』として塗り潰そうとしたのだ。
「私は所詮、男でございますゆえ! 昨夜の洗練された令嬢とは、比べ物になりませんわ……あ、いや、なりません!」
焦りのあまり、一瞬令嬢の口調が出そうになり、慌てて言い直す。
しかし。
アレクシス殿下は、謝罪する私の肩を、逃がさないように両手で強く掴み上げた。
「……リオン」
低く、地を這うような、凄みのある声。
殿下は、私の身体を壁際へとじりじりと押し込み、その菫色の瞳を、至近距離から真っ直ぐに覗き込んできた。
暖炉の炎に照らされた殿下の顔は、恐ろしいほどに美しく、そして冷徹だった。
「君とあの令嬢は……本当に、ただの双子なのか?」
「……っ」
「隠し事をしているな、リオン。……君たちの所作は、まるで同じ魂を共有しているかのように、私の肌に馴染むんだ。昨夜あの令嬢を抱き寄せた時の感覚と、今、君の腰に手を添えている感覚が……どうしてここまで、同じ熱を帯びる?」
顔が、さらに数センチ近づく。
殿下の熱い吐息が、私の唇をかすめるほどの至近距離。
それは、男装の側近に対する執着を遥かに超えた、私の正体の核心に手をかけようとする、剥き出しの疑惑と熱情だった。
私は、完璧な仮面の下で完全に呼吸を忘れ、ただただ、迫り来る王太子の覇気に、戦慄することしかできなかった。




