第25話 白薔薇のレースは譲れません
「――おい。そこで何をしている」
王宮の地下、ひんやりとした古い石造りの通路。
背後から低くドスを効かせた声が響いたかと思うと、私の右腕が、ギリッと乱暴に背中側へ捻り上げられた。
「痛っ……!」
「怪しい女め。ここで何を嗅ぎ回っていた? 顔を見せろ!」
男の荒々しい息遣いが後頭部にかかる。
前方には、巨大な扉を護る二人の武装兵。そして背後には、私の腕を拘束する三番目の男。
全員の胸には、宰相派を示す黒い蛇の紋章が刻まれている。
丸腰で、しかも動きにくいドレスとコルセットで固められた令嬢姿の私にとって、完全にチェックメイトの状況だった。
(終わった……こんなところで捕まったら、絶対に殺される!)
背筋を氷のような悪寒が駆け抜ける。
だが、恐怖で思考が真っ白になりかけたその時、私の中の『舞台人』としての本能が、冷たく冴え渡った。
(いいえ。私はどんな舞台でも、最後まで役を降りない!)
「きゃああっ! 許して、許してくださぁいっ!」
私は、鼓膜を劈くような、甲高くか弱い令嬢の悲鳴をわざとらしく上げた。
突然の金切り声に、男が「チッ、うるせえ!」と一瞬だけ顔をしかめ、拘束の力を僅かに緩める。
――その一瞬の隙。
私は、ドレスの裾を踏まないよう両膝を深く曲げ、身体を一気に沈み込ませた。
捻り上げられた腕の関節の可動域に合わせて身体を捻り、男の力のベクトルから『逃げる』。
これは前世の舞台で、乱暴な敵役から美しく、かつ安全に逃れるために血の滲むような反復練習で身につけた体術(殺陣)の応用だった。
「なっ!?」
ぬるり、と。
男の拘束から見事に腕を抜き去った私は、そのまま低い姿勢を保ち、振り返りざまに男の脛をヒールで思い切り蹴り上げた。
「ぐおっ!?」
「何やってる、捕まえろ!」
前方の見張り二人が剣を抜いて駆け寄ってくる。
私は、瑠璃色の美しいドレスの裾を、令嬢の品格などかなぐり捨てて豪快に両手で捲り上げた。
「ごきげんよう、殿方! お近づきの印にヒールをプレゼントいたしますわ!」
捨て台詞を残し、私は踵を返して、迷路のような暗い地下通路を全力で駆け出した。
背後から怒号と足音が追いかけてくるが、王宮の図面をミレーヌと頭に叩き込んでいた私の逃げ足の方が、僅かに勝っていた。
ドレスの重みとコルセットによる酸欠で何度か倒れそうになりながらも、私は秘密の通路を抜け、命からがら屋敷へと生還を果たしたのだった。
◇◇◇
そして、数日後。
「ああ……なんて美しいのかしら」
ローゼンフェルト伯爵邸の、私の自室。
トルソーに掛けられた純白のドレスを前に、私はうっとりとため息を漏らした。
男装の『リオン』として王宮から帰宅した直後だが、私の視線はドレスに釘付けになっていた。
ふんだんに使われた真珠色のシルク。
そして何より、胸元から裾にかけてあしらわれた、繊細で精巧な『白薔薇のレース』。
『リリアーナ。見てごらん、この白薔薇のレース。お母様が昔、デビューの時に着たものなのよ』
記憶の中で、お母様の優しい声が響く。
『あなたにあげるわ。これを仕立て直して、一番素敵なドレスを作りましょうね。……この夜だけは、お前が主役よ』
白薔薇舞踏会。
この国の令嬢たちが正式に社交界へデビューする、一生に一度の晴れ舞台。
私は、このドレスを着て、お母様の形見である白薔薇のレースを纏って、可憐な令嬢『リリアーナ』として皆様の前に立つ。
それこそが、私が今世で一番叶えたかった夢なのだ。
「お嬢様、微調整が終わりました。舞踏会には、完璧な状態で間に合いますよ」
ミレーヌが、誇らしげに微笑みながらドレスの裾を整える。
「ありがとう、ミレーヌ。私、絶対にこのドレスを着てみせるわ。……地下での一件で、お兄様がとんでもない闇に足を踏み入れていることは分かったけれど、だからといって私の夢を諦める理由にはならないもの」
私は、ドレスのレースにそっと指先で触れた。
あの地下の『光の部屋』の扉の前にいた、宰相派の見張りたち。
兄は間違いなく、王室の根幹に関わる巨大な陰謀を暴こうとして、彼らに追われているのだ。
ドタンッ!
突然、自室の扉が乱暴に開け放たれた。
私がビクッとして振り返ると、そこには、忌々しい笑みを浮かべた叔父ベルナールが立っていた。
「おやおや、リオン。王宮での務めを終えたばかりだというのに、随分と女々しい趣味だな。妹のドレスを眺めて喜んでいるのか?」
「叔父上……。ノックもなしに他人の部屋に入るのは、分家では推奨されるマナーなのでしょうか」
私は、瞬時に『冷徹な貴公子リオン』の仮面を被り、低い声で応じた。
「減らず口を。……それにしても、見事なレースだ。さぞや金がかかっているのだろうな」
叔父は、土足で部屋に上がり込み、トルソーに飾られたドレスを値踏みするようにジロジロと見た。
「兄の行方が依然として知れず、我が家の存続が危ういこの時期に。令嬢の飾り事などに莫大な金を使う余裕があるとは、本家の財政はどうなっているのだ? そんな無駄金があるなら、分家の領地運営に回すべきではないか」
ピキッ、と。
私のこめかみで、何かが弾ける音がした。
「無駄金、ですか」
「そうだ。女のお前に……いや、お前の妹に舞踏会など不要だろう。適当な田舎貴族にでも嫁がせて、家のために役に立つならそれで十分だ」
叔父の言葉は、私の夢を、そしてお母様との大切な思い出を、泥靴で踏みにじる暴言だった。
私は、ドレスと叔父の間にスッと入り、立ちはだかった。
背筋を伸ばし、見下ろすような角度で、菫色の瞳に零度まで冷え切った怒りを宿して。
「……叔父上。この白薔薇のレースは、亡き母の形見です。そして、妹リリアーナが、ローゼンフェルト家の誇り高き令嬢として社交界に立つための、何よりも大切な『証』です」
私の静かで、けれど圧倒的な威圧感を孕んだ声に、叔父はビクリと肩を震わせた。
「これを『無駄金』や『飾り事』と愚弄することは、我がローゼンフェルト本家の威信を傷つける行為と見なします。……二度と、私の妹のドレスをその穢れた目で見ないでいただきたい」
「なっ……! き、貴様、分家当主である私に向かって……!」
「お引き取りを。それとも、王太子殿下の側近である私から、直接殿下へ叔父上の『暴言』をご報告申し上げましょうか?」
王太子という絶対的な権力の名前を出され、叔父は顔を真っ赤にしたり青ざめたりしながら、ワナワナと震えた。
「……ふんっ! せいぜい、今のうちに虚勢を張っておくがいい!」
負け惜しみを吐き捨てて、叔父は足早に部屋から逃げ出していった。
私は、固く握りしめていた拳をゆっくりと解き、深く息を吐き出した。
(絶対に譲らない)
私は、改めて純白のドレスを見つめた。
この夜だけは、私が主役なのだ。誰の代わりでもない、私自身の人生を歩み始めるための、最初の一歩。
王太子の執着も、宰相の陰謀も、叔父の横槍も、すべて跳ね除けてみせる。
「ミレーヌ。明日も王宮よ。……お兄様が追っていたあの『光の部屋』を調べるには、アレクシス殿下の側近という立場を最大限に利用するしかないわ」
「かしこまりました。ですが、殿下の監視下で動くのは、綱渡りになりますよ」
「ええ。でも、やるしかないのよ」
そう決意を固めた、翌朝。
王宮に出仕した私を待ち受けていたのは、アレクシス殿下からの予想外の言葉だった。
「ローゼンフェルト。今夜、また少し付き合ってほしい」
執務机越しに、殿下が青灰色の瞳を細めて私を見る。
「付き合う、とは……公務でございますか?」
「いや。君に教わったダンスのステップだが……どうにもまだ、しっくりこなくてな。もう一度、私の練習相手になってくれ」
殿下のその言葉に、私は胃の痛みが再発するのを感じた。
あの至近距離での、心臓に悪いダンスレッスンをもう一度やれと言うのか。
白薔薇のレースを守り抜く戦いは、どうやら私の精神力を削り取る長期戦になりそうだった。




