第22話 これです、私が求めていたのは
「美しいお嬢さん。……私と、一曲踊っていただけるかな?」
王宮の仮面舞踏会。
東回廊へ抜けようとしていた私の手を取ったのは、カラスの羽を模した漆黒の仮面をつけた、アレクシス殿下だった。
逃げ場はない。
ここで不自然に振り払って騒ぎを起こせば、かえって注目を浴びてしまう。
もし仮面の下の顔を覗き込まれでもしたら、ローゼンフェルト家は王室を欺いた罪で一族郎党処刑行きだ。
「……喜んで、殿方」
私は、震える声を必死に抑え込み、甘く、少しだけ高さを変えた声で応えた。
扇を閉じ、差し出された殿下の大きな手の上に、自分の手をそっと重ねる。
その瞬間、殿下の指先がビクリと反応したのを、私は見逃さなかった。
(しまっ……! 男装の時と同じように、無意識に重心を預けてしまった……!)
しかし、殿下は何も言わず、私の腰に手を添えて、ダンスホールの中心へと私をエスコートした。
優雅なワルツの調べが、一段と高く響き渡る。
いち、に、さん。いち、に、さん。
(リードしてはいけない。絶対に、自分から足を出してはいけない……!)
私は、前世で何千回、何万回と繰り返してきた「相手を美しく見せるためのステップ」を、全力で封印した。
ただひたすらに、目の前の男性の動きに身を委ねる。
引かれれば前へ、押されれば後ろへ。
抵抗せず、ただ水に漂う花びらのように。
――ふわり。
ターンに合わせて、私が身に纏っている瑠璃色のドレスが、美しく円を描いて広がった。
たっぷりと使われた最高級のシルクが空気を孕み、銀糸の刺繍がシャンデリアの光を反射してキラキラと輝く。
重なり合うレースが擦れる、微かな衣擦れの音。
(ああ……)
私の胸の奥で、何かが熱く弾けた。
殿下の手のひらから伝わる、力強くも優しい熱。
私の動きを一切邪魔せず、ただ美しく舞うためだけに半歩先を導いてくれる、完璧なエスコート。
それは他でもない、数日前に「リオン」である私が、彼に手取り足取り教え込んだものだ。
しかし、それを実際に「受ける側」になった今、私はその圧倒的な心地よさに息を呑んでいた。
前世の星都歌劇団で、男役トップスターとして舞台の真ん中に立っていた私。
スポットライトを浴びていたのは私だったけれど、私の隣にはいつも、フリルとレースたっぷりのドレスを着て、私にすがるように微笑む可憐な娘役の姿があった。
私は、彼女たちを美しく見せることに誇りを持っていた。
けれど心の底では、ずっと、ずっと憧れていたのだ。
私も、あの重くて美しいドレスを着てみたい。
誰かに守られ、大切に手を取られ、ただ微笑んでいるだけの「姫」になりたい、と。
「……君は、まるで羽のように軽いな」
殿下が、仮面の奥の青灰色の瞳を細め、低く甘い声で囁いた。
その視線は、足元でも周囲でもなく、ただ私だけを真っ直ぐに射抜いている。
「殿方のリードが、素晴らしいからですわ」
私は、心からの本音を口にした。
顔を上げ、殿下を見つめ返す。
コルセットで締め上げられた胸が、苦しさとは違う理由で高く高鳴っている。
これだ。
これこそが、私が求めていたものなのだ。
誰かを守るために剣を振るうのではなく、完璧な王子様として賞賛を浴びるのでもなく。
ただ一人の令嬢として、美しい音楽とドレスに包まれ、素敵な男性に手を取られる幸福。
『この夜だけは、お前が主役よ』
記憶の中で、お母様が優しく微笑む。
白薔薇舞踏会のために仕立て直している、お母様の形見のレース。
あのドレスを着て、私は正式な社交界デビューを果たさなければならない。
(絶対に、絶対に譲らない)
私は、殿下の肩に添えた手に、ほんの少しだけ力を込めた。
三か月間、兄の身代わりをやり遂げた後、私は必ずこの場所へ戻ってくる。
男装の「リオン」としてではなく、伯爵令嬢「リリアーナ」として。
今、この瞬間味わっている至福は、私の「ただの憧れ」から「絶対に守り抜くべき人生」へと、はっきりと形を変えたのだ。
やがて、音楽が静かに終わりを告げた。
殿下は、私の腰をそっと抱き寄せ、優雅な一礼を捧げた。
周囲からは、私たちの完璧なダンスに対して、感嘆の溜息と拍手が巻き起こっている。
「素晴らしい時間だった。……美しいお嬢さん、よろしければこの後、少し静かな場所で――」
殿下が、さらに踏み込んでこようとする気配を感じ取った。
長居は無用だ。これ以上言葉を交わせば、発声の癖や言葉の選び方で、「リオン」であると勘付かれかねない。
「夢のようなひとときを、ありがとうございました」
私は、殿下の言葉を遮るようにして、ドレスの裾をつまみ上げ、完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露した。
そして、殿下が引き留める隙も与えず、素早く人混みの中へと身を翻した。
「あっ……待て!」
背後で殿下の声が聞こえたが、私は振り返らなかった。
仮面をつけた貴族たちの波に紛れ込み、足早に壁際へと移動する。
(よし、撒いたわ。……心臓が止まるかと思ったけれど、最高の時間だった)
私は、胸を押さえて小さく息を吐き出した。
少しだけ、令嬢としての喜びに浸りすぎてしまった。本来の目的を忘れてはいけない。
兄の残した暗号の先、王宮地下の『光の部屋』へ向かうため、急いで東回廊へ行かなくては。
壁伝いに移動を再開しようと視線を上げた、その時だった。
「やめてくださいませ……! 離して……っ!」
夜会の片隅、バルコニーへ続く薄暗いカーテンの陰。
そこに、淡いピンク色のドレスを着た若い令嬢が、恰幅が良く柄の悪そうな男に腕を掴まれ、怯えている姿が目に飛び込んできた。
「つれないことを言うなよ。少し俺と酒を飲むだけでいいんだ」
「い、嫌です……! 誰か……!」
周囲の貴族たちは、厄介ごとを避けるように見て見ぬ振りをしている。
(っ……!)
私の胸の奥で、再びカチリと音がした。
それは、か弱い娘役のピンチを前にした、男役スターの『お節介なスイッチ』が強制起動する音。
(ダメよ、リリアーナ! 今は令嬢の格好をしているのよ! 目立ったら、また殿下に見つかってしまうわ!)
頭の中で、理性が悲鳴を上げている。
しかし、私の視線はすでに、その卑劣な男の腕をどうやって美しく、かつ痛烈に払い除けるかを計算し始めていた。




