第21話 仮面舞踏会で、ついに念願のドレスを着ました!
「……っ、く、苦しい……!」
「我慢してくださいませ、お嬢様。これでもまだ、限界の三歩手前です。コルセットは令嬢の命、ここで妥協しては美しいウエストラインは作れません!」
ローゼンフェルト伯爵邸の、私の自室。
私は今、ベッドの柱にしがみつきながら、侍女のミレーヌによって背中の紐をギリギリと締め上げられていた。
肋骨がミシミシと悲鳴を上げ、呼吸が浅くなる。
だが、その苦しささえも、今の私にとっては至福の痛みだった。
ほぼ三か月ぶりの、女性としての装い。
胸を潰すための晒しではなく、女性らしい曲線を際立たせるための下着。
そして、ベッドの上に広げられた、夜空の色を溶かし込んだような深い瑠璃色のドレス。
ふんだんにあしらわれた最高級のレースと、歩くたびに星屑のように煌めく銀糸の刺繍。
(ドレス……! ああ、フリフリのドレス……!)
男物の漆黒の礼服も悪くはない。機能的だし、前世の血が騒ぐ。
しかし、私が今世で本当に着たかったのは、こういう「お姫様」のための服なのだ。
「はい、仕上がりました。……お見事でございます、お嬢様」
ミレーヌが、満足げなため息をついて手を止めた。
私は大きく息を吸い込み、ゆっくりと姿見の前に立った。
そこに映っていたのは、隙のない『理想の王子様』ではなかった。
高く結い上げられた金糸の髪。
美しくデコルテを彩る宝石。
瑠璃色のドレスは私の華奢な骨格にぴったりと寄り添い、動くたびにふわりと優雅な波を打つ。
「私……令嬢だわ。ちゃんと、女の子に見える……!」
私は両手で頬を覆い、感極まって涙ぐんだ。
「当たり前でございます。お嬢様は正真正銘の伯爵令嬢なのですから」
ミレーヌは呆れたように言いながら、最後に、目元を覆う銀色の豪奢な仮面を私の顔にそっと着けた。
顔の半分が隠れる、蝶の羽を模した美しい仮面。
これなら、王宮の誰も、私が王太子殿下の側近見習い『リオン』だとは気づくまい。
「ミレーヌ、ありがとう。完璧よ」
「お気をつけて。王宮の地下へ向かうには、後宮側の東回廊を抜けるのが一番近道です。ただし、絶対に正体を知られてはなりませんよ」
「ええ、わかっているわ」
私は、ドレスの裾を優雅につまみ上げ、淑女の微笑みを浮かべた。
いざゆかん、王宮の仮面舞踏会。
兄の残した暗号の謎を解き明かし、そして、一日限りの「お姫様」を満喫するために。
◇◇◇
王宮の大広間は、まさに夢のような空間だった。
無数のシャンデリアが眩い光を放ち、軽快なワルツの調べが空気を震わせている。
会場を埋め尽くすのは、顔を仮面で隠し、豪華な衣装に身を包んだ貴族たち。
異国情緒溢れる仮面舞踏会は、いつもの厳格な夜会とは違い、どこか甘く、秘密めいた熱気に包まれていた。
(すごい……! なんて素敵なの!)
私は扇で口元を隠しながら、目をキラキラと輝かせて広間を見渡した。
少し歩を進めるだけで、すれ違う紳士たちが立ち止まり、恭しく道を譲ってくれる。
給仕がうやうやしくグラスを差し出し、「お美しいレディ」と甘い言葉をかけてくる。
これだ。
これこそが、私が夢見ていた「令嬢」としての扱いだ!
前世では、私が女性たちをエスコートして道を譲る側だった。
今世で男装を始めてからも、すれ違う令嬢たちが頬を染めて道を開けていくばかりで、私自身が「守られるか弱い存在」として丁重に扱われることなど皆無だったのだ。
(ああ、最高。ドレスの裾が床を滑る音すら愛おしいわ)
私は、自分が極上の女になったような全能感に酔いしれていた。
だが、いつまでも浮かれているわけにはいかない。
今日の私の真の目的は、兄が残した暗号――王宮の地下にある『光の部屋』を探ることだ。
私は、壁際を伝いながら、広間の奥にある東回廊の扉へと少しずつ近づいていった。
東回廊の先は、王族の私室や女性たちが集う後宮へと繋がっている。
男装した『リオン』の姿では、不審者としてすぐに衛兵に止められてしまう場所だ。令嬢の姿をしている今しか、そこを抜けて地下の旧施設へアプローチするチャンスはない。
(よし、衛兵の死角に入った。このまま、扉を抜けて……)
音楽が最高潮に達し、人々の視線が広間の中央で踊るペアたちに集中した、その瞬間。
私は、東回廊へ続く重厚な扉の取っ手に手を伸ばした。
――トン、と。
突然、私の背後の壁に、大きな手が突かれた。
「っ……!?」
扉に伸びていた私の腕を遮るように、上から長い腕が覆い被さってきたのだ。
背中越しに、圧倒的な体格の差と、火傷しそうなほどの熱気が伝わってくる。
「……こんなところで、一人寂しく壁の花とは。あまりにも勿体ない」
鼓膜を直接撫でるような、低く、甘く、そして重い覇気を孕んだ声。
心臓が、ヒュッと音を立てて縮み上がった。
間違いない。
男装している時、散々至近距離で聞かされてきた、あの声だ。
私は、首の関節が軋むような思いで、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、漆黒の軍服風の夜会服に身を包んだ、長身の紳士だった。
顔の上半分は、カラスの羽を模した真っ黒な仮面で覆われている。
だが、その仮面の奥から私を射抜いているのは、氷のように冷たく、それでいて獲物を逃がさない猛禽類のような、青灰色の瞳。
(ア、アレクシス殿下ぁぁぁーーっ!?)
私は内心で絶叫した。
なんでここにいるの! 仮面を着けていても、その隠しきれない王族のオーラと重すぎる威圧感で丸わかりじゃない!
しかも、なぜよりによって、目立たないように息を潜めていた私の背後を取っているのか。
「あ、あの……」
私は、扇で顔の下半分を隠し、声の高さを変えて、おずおずと上目遣いになった。
大丈夫だ。私は今、完璧な令嬢の格好をしている。
コルセットで体型も変わっているし、メイクもしている。仮面だって着けている。
あの男装の『リオン』だとバレるはずがない。
「どうした? 小鳥のように震えて」
殿下は、仮面の下の美しい唇に、余裕たっぷりの笑みを浮かべた。
「驚かせてしまったのなら謝ろう。だが、君があまりにも美しかったものでね。つい、声をかけずにはいられなかった」
殿下が、長い指を伸ばし、私の手からすっと扇を奪い取った。
そして、空いた私の右手を、ひざまずくこともなく強引に引き寄せる。
「美しいお嬢さん。……私と、一曲踊っていただけるかな?」
それは、誘いではない。
絶対に断ることを許さない、絶対者の命令だった。
手のひらから伝わる、殿下の体温。
男装の時に幾度となく重ねた、その大きな手の感触に、私の身体は完全に硬直した。
(断れない……! でも、踊ったら絶対に、私の『エスコートの癖』が出てボロが出る!)
逃げ場のない広間の片隅。
王太子殿下の執着と、正体がバレるという絶体絶命の恐怖が、私の喉を締め上げていた。




