第20話 兄の部屋に残された暗号
急使の報告を機に、王宮とローゼンフェルト伯爵家は水面下で国境の情報を追い続けた。
だが確証は掴めないまま、二ヶ月余りが過ぎ、約束の三か月は目前に迫っていた。
その夜、王宮からローゼンフェルト伯爵邸に帰還した私は、自室のベッドに倒れ込む……誘惑を全力で振り切り、双子の兄、リオンの部屋へと足を踏み入れた。
主のいない部屋は、空気がひんやりと停滞している。
出仕前夜に彼が姿を消してから、この部屋は必要最低限の掃除しかされていない。
「お兄様……一体、どこで何をしているのよ」
私は小さくため息をつきながら、部屋の中を見渡した。
国境付近で兄らしき人物を見たという手紙はお父様に届いたが、それだけではあまりにも不確実だ。
それに、あの飄々として頭の切れる兄が、ただ無計画に逃げ出して野垂れ死ぬとは思えない。何か、目的があって動いているはずなのだ。
「何か、手がかりはないの……?」
私は腕まくりをして、本格的な家探しを開始した。
本棚の裏、クローゼットの奥、ベッドの下。
怪しまれないように手紙や日記の類はすべて処分して出て行ったようだが、あの不器用なくせに妹思いの兄が、私に何のメッセージも残さずに消えるはずがない。
一時間ほど埃と格闘し、諦めかけて執務机に寄りかかった、その時だった。
「……ん?」
机の引き出しの裏側。
下から覗き込まなければ絶対に気づかないような場所に、薄い紙切れがテープで貼り付けられているのを見つけた。
「あった……!」
私は急いでその紙を剥がし、窓際の明かりに透かした。
そこには、見慣れた兄の癖のある字で、短い文章が走り書きされていた。
『白薔薇の下、上手の陰。幕の裏に眠る、光の部屋。鳥はそこで籠を編む』
「…………は?」
私は、紙切れを持ったまま固まった。
なんだこれは。
ポエムか? まさか兄上、失踪前夜に突然ポエマーとしての才能を開花させたというのか。
いや、違う。いくらなんでも、あのお調子者の兄がこんな中二病めいた詩を机の裏に隠すわけがない。
(暗号……よね、間違いなく)
私はベッドに腰掛け、その紙切れをじっと睨みつけた。
普通の人なら「意味不明な走り書き」として捨ててしまうだろう。
だが、私には前世の記憶がある。
前世の私は、女性だけの星都歌劇団でトップスターを張っていた。
そこで日常的に扱っていたのは、何百ページにも及ぶ複雑な台本や、天才肌ゆえに言葉足らずな演出家たちの「抽象的すぎるダメ出しメモ」である。
『ここの動き、もっと星が流れるように!』とか、『悲しみを青い炎にして指先から放出して!』といった、常人には理解不能な演出意図を汲み取り、具現化するのが私の仕事だったのだ。
それに比べれば、この暗号など可愛いものである。
「『上手』の陰……『幕の裏』……」
私は、その単語のチョイスに違和感を覚えた。
上手とは、舞台に向かって右側のこと。幕の裏とは、バックステージ。
明らかに「劇場」や「舞台」に関連する用語だ。
(この異世界にも、劇場の概念はあるわ。王都には古い宮廷劇場があるって、歴史の授業で習ったし)
白薔薇の下。
白薔薇といえば、我が国の王室の紋章であり、王宮そのものを指す隠語としても使われる。
「つまり……王宮のどこかに、古い舞台に関連する『光の部屋』があるってこと?」
そして『鳥はそこで籠を編む』。
鳥が、王家の紋章を戴く者……つまり、王族やそれに連なる者を指すのだとすれば。
籠を編む=陰謀を企てている、あるいは何かを隠している、と読み解ける。
「お兄様は……王宮内の何か、古い劇場施設のような場所を調べていたのね」
私は紙切れをギュッと握りしめた。
これまでは「三か月やり過ごせば、お父様が探してくれた兄が帰ってくる」と、どこか受け身でいた。
けれど、状況はそんなに甘くないのかもしれない。兄は、想像以上に危険な何かに首を突っ込んでしまったのだ。
「待ってて、お兄様。私が絶対に見つけ出して、首根っこを掴んででも引きずり戻してやるわ」
私は立ち上がり、瞳に強い決意の光を宿した。
自分の夢である白薔薇舞踏会を守るためにも、兄には絶対に帰ってきてもらわなければならないのだから。
コンコン、と。
控えめなノックの音と共に、侍女のミレーヌが紅茶のトレイを持って部屋に入ってきた。
「お嬢様。……いえ、リオン坊ちゃま。随分と埃まみれですね。何か探し物ですか?」
「ええ。少し、面白いものを見つけたわ」
私はミレーヌに暗号のメモを見せ、自分の推測を語った。
ミレーヌは真剣な表情で頷きながら、紅茶をカップに注ぐ。
「王宮内の古い劇場施設、ですか。……歴史書によれば、王宮の地下にはかつて儀式や祝祭に使われていた広大な空間があるとか。現在は閉鎖されているはずですが」
「そこね。間違いなく、お兄様が調べていたのはそこよ」
私は紅茶を一口飲み、頭をフル回転させた。
「でも、問題はどうやってそこを調べるかよ。今の私は、アレクシス殿下の『側近見習い』。王宮にいる間は、ずっとあの鋭い殿下の監視下にあるようなものだわ。少しでも不審な動きをすれば、絶対に勘付かれる」
思い出すだけで胃が痛い。
あの執着心の塊のような王太子殿下の目を盗んで、王宮の地下を探索するなど、自殺行為に等しい。
「それにつきまして、一つご提案がございます」
ミレーヌが、淡々とした声で言った。
「近々、王宮で各国の要人を招いた夜会が開かれます。今回は少し趣向が違い、仮面舞踏会の形式を取るとか」
「仮面舞踏会?」
「はい。そして、その夜会には、未婚の令嬢たちも多数招待されております。……つまり」
ミレーヌは、私の顔を見て、薄く、しかし確かな悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「『リオン坊ちゃま』ではなく、『令嬢リリアーナ』として、素顔を隠して潜入なさってはいかがでしょうか? 令嬢の姿であれば、殿下の側近としての監視から外れます。それに、女性の足でしか入り込めない後宮側の通路から、地下へアプローチできるかもしれません」
私は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
令嬢として、王宮の夜会へ。
男装を解き、コルセットを締め、美しいドレスを纏って。
「……やるわ」
私の口から、無意識のうちに声が漏れていた。
危険だ。もし誰かに正体がバレれば、家は取り潰しになる。
しかし、それ以上に。
(ドレスが、着られる……!)
前世からの悲願。
三か月間お預けを食らっていた、あのフリフリで可憐な令嬢としての姿になれるのだ。
「ミレーヌ、今すぐお母様のドレスを準備して! 仮面もよ! 誰にもバレない、完璧な令嬢に仕立て上げてちょうだい!」
「かしこまりました。お嬢様の美しさを、存分に引き出してみせましょう」
兄を探すためという大義名分を得て、私の心は久々に高揚感で満たされていた。
まさかこの潜入が、後に王太子殿下との関係を決定的に変える大事件に発展するなどとは露知らず、私は迫り来る夜会に向けて、胸を躍らせていたのだった。




