第19話 貞操の危機は急使によって救われました
「……いっそ、君を私の私室に閉じ込めて、一生鎖で繋いでしまおうか」
冗談とは思えない、底知れない熱を孕んだ声。
アレクシス殿下の端正な顔が、私の鼻先が触れるほどの距離まで迫ってくる。
逃げ場はない。背中は冷たい壁に押し付けられ、顎を捉える指先からは火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。
(嘘でしょ、嘘でしょ、嘘でしょ!? これ、完全に食べられる流れじゃない!)
男装しているとはいえ、私は正真正銘の伯爵令嬢だ。
こんなにも美しい王太子殿下に本気で迫られて、心臓が爆発しないわけがない。
だが、これはロマンチックなラブシーンではない。男(と思われている側近)に対する、重すぎる執着と独占欲の暴走だ。
私が絶望のあまり目をギュッと瞑った、その瞬間だった。
ドンドンドンッ!
執務室の重厚な扉が、慌ただしく叩かれた。
「殿下! アレクシス殿下! 第一騎士団より急使でございます!」
扉の向こうから、切羽詰まったような声が響く。
ピタリ、と。
殿下の動きが止まった。
数秒の、息が詰まるような沈黙。
やがて殿下は、深く、それはもう地の底から響くような不機嫌な舌打ちをした。
「……何の用だ。急ぎでなければ許さんぞ」
殿下は私から手を離し、乱れた服の襟を正しながら扉の方へと向き直った。
声は完全に、冷徹な『王太子』のものに戻っている。
「国境付近の街で、隣国の商人たちとの間で小規模な暴動が発生したとの報告が! 至急、殿下のご裁断を仰ぎたく!」
「……わかった。すぐに行く」
殿下は、大きなため息をついてから、私を振り返った。
その青灰色の瞳には、まだ微かに熱が残っていたが、理性の光がしっかりと灯っていた。
「命拾いしたな、ローゼンフェルト」
「……は、はい。殿下も、お仕事頑張ってくださいませ」
私は引きつった笑顔で、這うようにして壁から離れた。
「今日のところはこれで勘弁してやる。だが……この話の続きは、また後でゆっくり聞かせてもらおう。君が誰のものか、骨の髄まで理解させてやる」
捨て台詞のように恐ろしい言葉を残し、殿下は足早に執務室を出て行った。
バタン、と扉が閉まる音を聞いて、私はその場にへたり込んだ。
(助かった……。本当に、危なかった……!)
もしあの急使が来ていなかったら、私は今頃どうなっていたのだろうか。
想像するだけで背筋が凍る。
王太子殿下の執着は、もはや私の手には負えないレベルに達している。
一刻も早く、本当に一刻も早く、本物のリオンに帰ってきてもらわなければ。
私は震える足に鞭打って立ち上がり、残された書類の整理を適当に済ませてから、逃げるように執務室を後にした。
◇◇◇
「あ、リオン!」
王宮の長い回廊を早足で歩いていた私の耳に、パッと花が咲いたような明るい声が届いた。
振り返ると、銀糸の髪を揺らしながら、第二王子ジュリアン殿下が小走りで駆け寄ってくる。
「ジュリアン殿下。ごきげんよう」
私は立ち止まり、完璧な貴公子の微笑みを浮かべて一礼した。
さっきまでの貞操の危機に比べれば、ジュリアン殿下の無垢な笑顔はまさに天使の癒しだ。
「リオン、ちょうどよかった。少し、君に相談したいことがあって……探していたんだ」
ジュリアン殿下は、少しモジモジしながら上目遣いで私を見た。
その様子は、飼い主に褒めてもらいたい子犬のように愛らしい。
「私にできることでしたら、何なりと」
「うん。あのね、近々開かれる白薔薇舞踏会のことなんだけど……」
白薔薇舞踏会。
その単語が出た瞬間、私の心臓が別の意味でドキンと跳ねた。
私が可憐な『リリアーナ』としてデビューする、絶対に譲れない晴れ舞台。
アレクシス殿下も乗り込んでくると宣言している、あの恐ろしい舞踏会だ。
「僕、ああいう華やかな場所が苦手で……。また宰相派の人たちに何か言われるんじゃないかって思うと、怖くて。……だから、もしよかったら、リオンが僕と一緒にいてくれないかな?」
ジュリアン殿下は、私の袖をきゅっと掴み、すがるような瞳で私を見上げた。
「リオンがいれば、僕も少しは堂々と振る舞える気がするんだ。お願い、僕のエスコート役……というか、護衛みたいに側にいてほしいんだ」
(うわあああ……!)
私は内心で頭を抱えた。
なんと愛らしく、そして無茶な要求だろうか。
ジュリアン殿下を守ってあげたいのは山々だ。前世のお節介な男役の血が「任せておきなさい!」と叫びたがっている。
だが、無理なのだ。
なぜなら、その日の私は『リオン』ではない。
フリフリのドレスを着た、可憐な伯爵令嬢『リリアーナ』として、その舞踏会に参加しなければならないのだから!
「……ジュリアン殿下。お言葉は大変光栄なのですが、誠に申し訳ございません」
私は、心を鬼にして首を横に振った。
「その日、私はどうしても外せない個人的な事情がありまして、舞踏会には『リオン』として参加することができないのです」
「えっ……そうなの?」
ジュリアン殿下の顔が、あからさまにしょんぼりとした。
垂れた犬の耳が見えるようだ。罪悪感が胸を刺す。
「ですが、殿下」
私は膝を折り、ジュリアン殿下と視線を合わせた。
「殿下はもう、一人で立派に歩けるはずです。私がいなくとも、殿下のその優しさに惹かれる素敵な令嬢が、必ず現れます。……私が、殿下に相応しいパートナーを見つけるお手伝いをいたしますから」
「僕に、相応しいパートナー……?」
「ええ。殿下が心から安心できる、強くて優しい令嬢を。……ですから、どうか勇気を出して、ご自身の足で舞踏会を楽しんでください」
私は極上の微笑みと共に、甘い言葉で彼を励ました。
ジュリアン殿下は、ぽっと頬を染め、「う、うん。リオンがそう言うなら、頑張ってみる」と小さく頷いてくれた。
よし、これでジュリアン殿下の件はなんとかなる。
あとは、アレクシス殿下の監視をどう躱して、リリアーナとして無事にデビューするかだ。
ジュリアン殿下と別れ、ローゼンフェルト伯爵邸へと帰還した私を待っていたのは、血相を変えたお父様だった。
「リリアーナ! 戻ったか!」
「お父様? そんなに慌てて、どうされたのですか」
執務室に駆け込んだ私に、お父様は震える手で一通の手紙を差し出した。
「つい先ほど、我が家の密偵から知らせがあった。……リオンの行方について、有力な手がかりが見つかったらしい!」
「えっ!?」
私は手紙をひったくるように受け取った。
そこには、国境付近の街で、リオンらしき人物が宰相派の怪しい男たちに追われているのを見たという情報が記されていた。
(国境付近……? まさか、さっきアレクシス殿下のところに届いた暴動の報告と関係が……!?)
兄が戻れば、私の身代わり生活は終わる。
王太子殿下の恐ろしい執着からも解放され、晴れて自由の身となれる。
だが、手紙の日付を見れば、兄が王都へ戻ってくるにはまだ時間がかかりそうだった。
そして、白薔薇舞踏会は、もう目前に迫っている。
(お兄様……どうか無事でいて。でも、お願いだから早く帰ってきて!)
私は手紙を握り締めながら、迫り来る運命の舞踏会に向けて、決死の覚悟を固めるのだった。




