第18話 いっそ閉じ込めてしまおうか、は冗談ですよね?
「私の婚約者候補と、私の側近が。私が席を外したわずかな間に、一体何を語り合っていたのだろうか」
春の陽気に包まれた茶会の天幕の下が、一瞬にして真冬の氷点下へと叩き落とされた。
国王陛下への用事を済ませて戻ってきたアレクシス殿下は、笑顔で並び立つ私とセラフィーナ様を見るなり、その場が凍りつくほどの冷気を放ち始めた。
青灰色の瞳には、怒りとも、焦燥とも、そして底知れない嫉妬ともつかない、ひどく暗い感情が渦巻いている。
「で、殿下……!」
セラフィーナ様が、ハッと我に返ったように姿勢を正し、完璧な公爵令嬢の顔を取り戻そうとした。
だが、その手は微かに震えていた。
「セラフィーナ嬢」
殿下は、セラフィーナ様に向けて、極めて形式的で、氷のように冷たい声を発した。
「私の側近が、何か失礼をしたようだな。申し訳ない。彼はまだ王宮の作法に不慣れでね」
「い、いえ! 失礼など、そのようなことは決して……! リオン様には、とても温かいお言葉をいただき……」
彼女の必死の弁明は、かえって殿下の地雷を深く、そして重く踏み抜く結果となった。
「……温かい、言葉」
殿下のこめかみが、ピクリと引きつった。
そして、私の腕をギリッと音を立てんばかりの強い力で掴み上げた。
「殿下っ!?」
「急ぎの公務を思い出した。ローゼンフェルト、戻るぞ」
「お、お待ちを! まだ茶会は終わって……!」
「戻るぞと言ったんだ」
有無を言わさぬ、絶対的な王太子の命令。
私は、セラフィーナ様に助けを求めるように視線を向けたが、彼女もまた殿下の覇気に圧倒され、声を出せずに立ち尽くしていた。
私は腕を引かれるまま、半ば引きずられるようにして庭園を後にした。
◇◇◇
バタンッ!!
王宮の奥深くにある、アレクシス殿下の専用執務室。
重厚な扉が乱暴に閉められ、鍵がかけられる音が響いた。
「で、殿下、落ち着いて……っ!」
私が抗議する間もなく、殿下は私の腕を壁へと押し付け、逃げ場を完全に封じた。
ドンッ、という鈍い音が背中から伝わる。
いわゆる壁ドンというやつだが、少女漫画のような甘い雰囲気は微塵もない。捕食者に追い詰められた小動物の気分だ。
「他国の姫に続き、今度は私の婚約者候補か」
鼻先が触れそうなほどの至近距離。
殿下の青灰色の瞳が、私の顔を穴が開くほど見つめ下ろしている。
「あの氷の令嬢と呼ばれるセラフィーナが、君にはあんな風に、柔らかく笑いかけるとはな。……一体、どんな魔法を使った、リオン」
「ま、魔法など使っておりません! 私はただ、彼女が一人で耐えていたから、声をかけただけで……!」
私は、殿下の放つ威圧感に必死に抗いながら、言葉を紡いだ。
「殿下が席を外された直後、他の令嬢たちがセラフィーナ様を取り囲み、酷い嫌味を浴びせていたのです! 彼女は、殿下の婚約者候補として完璧でなければならないという重圧に、たった一人で耐えていました! 私が庇わねば、彼女の心は潰れてしまっていたかもしれないのに!」
その言葉に、殿下の動きがピタリと止まった。
青灰色の瞳が、驚きに見開かれる。
そして、数秒の沈黙の後、殿下は苦しげに顔を歪め、私から少しだけ距離を取った。
「……そう、か」
殿下が、深く、自嘲気味なため息をつく。
「君の言う通りだ。彼女はいつも完璧で、隙がなかった。だから私は、彼女が一人で傷ついていることにすら気づけなかった。……婚約者候補である彼女を守るべきは、本来なら私のはずなのに」
殿下の横顔には、己の不甲斐なさに対する痛烈な後悔が浮かんでいた。
(……殿下)
その人間らしい、脆さを見せた姿に、私は少しだけ胸が締め付けられる思いがした。
彼は冷酷なわけではない。ただ、王太子という役割に縛られ、他人の心の機微にまで気を回す余裕がなかっただけなのだ。
「殿下は悪くありません。ただ、少しだけすれ違っていただけで……」
私が慰めの言葉をかけようとした、その時だった。
「……だが」
殿下が、再び私の方へと向き直った。
その瞳に宿っていた後悔の念は、一瞬にして、先ほどよりもさらに濃い、ドス黒い熱へと変わっていた。
「君の言葉が正しくとも。君が彼女を救ったのだとしても。……私は、腹の底から湧き上がるこの不快感を、どうすることもできない」
殿下は再び私に歩み寄り、今度は私の顎に指をかけ、上を向かせた。
「ひゃっ……!」
男装しているというのに、私は思わず可愛らしい悲鳴を上げてしまった。
「君が、私以外の誰かにあの『極上の微笑み』を向けるのが許せない。私以外の誰かのために、その完璧なエスコートを使うのが耐えられない。……君のその無自覚な魅力が、どれほど周囲を狂わせているか分かっているのか?」
低く、甘く、そして狂気を孕んだ声。
顎に添えられた指の熱が、私の体温を急激に上昇させていく。
「で、殿下……私は、殿下の側近、です。男、ですよ……?」
私は震える声で、必死に現実を突きつけようとした。
私が男装の令嬢だと気づいているから執着しているのならまだしも、もし『リオン』という青年に本気で惹かれているのだとしたら、それはそれで別の国の危機である。
「男だろうが、何だろうが関係ない」
殿下は、私の言葉をあっさりと切り捨てた。
「君は、私のものだ。……これ以上、君を誰の目にも触れさせたくない」
殿下の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
息がかかるほどの距離で、その美しい唇が、恐ろしい言葉を紡いだ。
「……いっそ、君を私の私室に閉じ込めて、一生鎖で繋いでしまおうか」
冗談のような響きだが、その青灰色の瞳には、冗談を言っている人間の光はなかった。
完全にマジだ。
このままでは、白薔薇舞踏会での正体バレを心配する前に、別の意味で私の貞操と自由が奪われてしまう。
「で、殿下! お仕事! 書類が山積みですよ! 王太子としての責務を果たさねば!」
私は必死に殿下の胸を押し返し、執務デスクの方を指差した。
殿下は数秒間、私とデスクの上の書類を交互に見比べた後、ふっと毒気を抜かれたように笑った。
「……君は、本当に逃げ足が速いな」
殿下は私の顎から手を離し、デスクへと向かった。
私はその場にへたり込みそうになるのを、前世で鍛え上げた体幹でなんとか堪えた。
三か月の身代わり生活。
壁のシミになってやり過ごすという目標は、もう諦めた。
今の私の目標はただ一つ。
(なんとしても、あの白薔薇舞踏会の日まで、無傷で生き延びる……!)
私は、執務室の壁に背中を預けながら、固く、固く決意を新たにしたのだった。




