第17話 公爵令嬢の冷たい仮面を溶かしてしまいました
「あの愛想のないお顔で『王太子妃候補』などと持ち上げられているなんて、殿下が本当にお可哀想」
クスクスと、悪意に満ちた笑い声が白い天幕の下に響く。
セラフィーナ様の水色の瞳が微かに揺れ、ドレスの生地を握りしめる手が白く震えているのを見た瞬間。
私の中の『お節介なスタースイッチ』が、完全にオンになった。
(ダメよ、目立っちゃダメ! 殿下にまた目をつけられるわよ!)
頭の片隅で、残された理性が必死に警告音を鳴らしている。
だが、前世で理不尽な演出家から後輩を守るために何度も矢面に立ってきた私の身体は、理性の命令などとうに無視していた。
「――おやおや。美しい花園に、少々冷たい風が吹いているようですね」
私は、甘く、それでいて広間の隅々にまで通る美声を響かせながら、令嬢たちの輪の中へと優雅な足取りで割って入った。
「な、何者ですの……?」
突然現れた私に、嫌味を言っていた令嬢たちが驚いて振り返る。
私は右手を胸に当て、前世で磨き抜いた最高難易度の一礼を披露した。
背筋の美しいライン、伏せ目がちにしたまつ毛の角度、そして顔を上げた瞬間に放つ、相手を射抜くような極上の微笑み。
「リオン・ローゼンフェルトと申します。王太子殿下の側近見習いを務めさせていただいております」
「ろ、ローゼンフェルト伯爵家の……」
令嬢たちの頬が、一瞬にして薔薇色に染まる。
無理もない。今の私は、客観的に見れば、神秘的な菫色の瞳と金髪を持つ、非の打ち所がない超絶美形の貴公子なのだから。
「先ほど、セラフィーナ様のドレスが氷のように寒々しいというお言葉が耳に入りましたが」
私は、令嬢たちから視線を外し、セラフィーナ様の方へとゆっくりと向き直った。
セラフィーナ様は、突然の闖入者に驚いたように目を丸くしている。
「私には、そうは思えません。……セラフィーナ様の纏う空気が冷たく感じられるのは、彼女自身の魂の輝きが、それほどまでに純粋で高潔だからです」
私は、セラフィーナ様の水色の瞳を真っ直ぐに見つめ、甘い吐息を交えて言葉を紡いだ。
「まるで、冬の夜空に瞬く一番星のように。手が届かないほど気高く、そして美しい。……殿下への敬意を、これほどまでに洗練された形で表現できる方は、セラフィーナ様を置いて他にはいらっしゃらないでしょう」
「っ……!」
セラフィーナ様が、小さく息を呑む。
周囲の令嬢たちは、私の情熱的すぎる言葉と、圧倒的な『王子様オーラ』に完全に当てられ、口をパクパクとさせている。
「皆様の華やかなドレスも、もちろん春の陽だまりのように魅力的です。ですが、星の輝きを前にしては、少々分が悪いかもしれませんね」
私は、令嬢たちにニコリと微笑みかけた。
言葉の表面は褒めているが、裏を返せば「お前たちの派手なドレスは彼女の気高さには敵わないから、さっさと引き下がれ」という痛烈な皮肉である。
「あ、あのっ……私どもは、これで失礼いたしますわ!」
「ご、ごきげんよう!」
私の甘い毒気に当てられたのか、それともこれ以上王太子の側近に目をつけられるのを恐れたのか。
令嬢たちは顔を真っ赤にして、逃げるようにその場から散っていった。
天幕の下に、静寂が戻る。
「……あの」
セラフィーナ様が、戸惑うような声で私を呼んだ。
「ローゼンフェルト卿、とおっしゃいましたか。なぜ、私を庇うような真似を?」
彼女は、依然として完璧な公爵令嬢の仮面を崩そうとはしなかった。
背筋をピンと伸ばし、警戒するように私を見つめている。
「庇ったわけではございません。ただ、あまりにも無粋な声が耳障りだったもので」
私は、フッと息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。
そして、彼女には聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな声で呟いた。
「それに……重い鎧を着たまま戦い続けるのは、とても疲れるでしょう?」
「え……?」
セラフィーナ様の水色の瞳が、大きく見開かれた。
「常に完璧であれと求められ、誰にも弱音を吐けず、ただ己の役割だけを演じ続ける。……その苦しさを、少しだけ知っている気がしたのです」
それは、前世の私自身の経験であり、そして今世で『完璧な男装の側近』を演じている私の本音でもあった。
「あなたは、十分に立派です。これ以上、ご自身を傷つけるような重い鎧を、無理に纏う必要はないのではありませんか」
私が優しくそう告げると、セラフィーナ様の瞳から、不意に大粒の涙が零れ落ちそうになった。
彼女は慌てて扇で顔を隠し、深く俯いた。
「……誰も、そんなことを言ってくれたことは、ありませんでした」
震える声が、扇の裏から漏れる。
「父も、家庭教師も、王宮の者たちも。皆、私を『未来の王太子妃』という記号でしか見てくれない。私がどれほど息苦しい思いをしているか、誰も……っ」
「私は、あなたという一人の人間を見ていますよ、セラフィーナ様」
私は、彼女を励ますように、とろけるような甘い微笑みを向けた。
数秒の沈黙の後。
セラフィーナ様は、扇をゆっくりと下ろし、私を見た。
そこにあったのは、冷たい氷の仮面ではない。
年相応の、柔らかく、そして信じられないほど美しい、恥じらいを含んだ少女の笑顔だった。
「……ありがとうございます、リオン様。あなたの言葉に、救われました」
ドキン、と。
彼女のあまりの美しさに、中身が令嬢である私でさえ、思わず見惚れてしまった。
(よかった。この人も、ちゃんと笑えるんじゃない)
私は、自分の『お節介』が良い結果を生んだことに、密かに満足感を覚えていた。
――しかし。
私が彼女の笑顔に見惚れていた、まさにその瞬間だった。
「……随分と、盛り上がっているようだな」
背後から、氷点下まで冷え切った、地を這うような低い声が聞こえた。
ビクッとして振り返ると、そこには、国王陛下への用事を終えて戻ってきたアレクシス殿下が立っていた。
その青灰色の瞳は、私とセラフィーナ様が並んで微笑み合っている光景を、信じられないものを見るような……いや、明確な殺意すら混じったような目で射抜いていた。
(ヒッ……!)
私は、心臓が凍りつくのを感じた。
「私の婚約者候補と、私の側近が。私が席を外したわずかな間に、一体何を語り合っていたのだろうか」
殿下が、一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。
その背後には、まるで黒いオーラのような、ドス黒い独占欲と強烈な嫉妬が渦巻いているのが、目に見えるようだった。
「で、殿下! 誤解でございます! 私はただ、セラフィーナ様が少しお疲れのようでしたので……!」
「ほう。君は、他国の姫だけでなく、私の婚約者候補の疲れまで癒せるほどの包容力を持っているのか。それは素晴らしい側近を持ったものだ」
言葉とは裏腹に、殿下の目は全く笑っていない。
セラフィーナ様も、突然の殿下の怒気に戸惑い、オロオロとしている。
(終わった。完全に地雷を踏み抜いた……!)
他国の姫に続き、今度は自分の婚約者候補まで魅了(したように見える)してしまった私。
王太子殿下の重すぎる執着と嫉妬の炎は、もはや私を丸焦げにするまで止まらないだろう。
私は、完璧な仮面の下で胃を抱えながら、果てしなく遠のいていく平穏な三か月に、静かに別れを告げたのだった。




