第16話 公爵令嬢は恋敵ではありませんでした
「……私は、君のすべてを知りたいと思っている」
昨日の市井視察の帰り、馬車の中で至近距離から告げられたアレクシス殿下の言葉が、まだ耳の奥で呪いのようにリフレインしている。
すべてを知りたい。
それは、私の正体を暴きたいという疑念なのか、それとも男装姿の私に対する個人的で重すぎる執着なのか。
どちらにせよ、私の平穏な三か月という計画は風前の灯火だ。
胃痛を抱えながら出仕した翌日。
私は、王宮の美しい庭園に設営された白い天幕の下にいた。
今日は、国内の有力な上位貴族を招いた茶会が開かれている。王太子殿下の側近見習いとして、私は少し離れた場所で控えていた。
「アレクシス殿下。本日はお招きいただき、光栄の至りに存じますわ」
鈴を転がすような、しかしどこか冷ややかで澄んだ声が響いた。
声の主は、ひと際目を引く美貌の令嬢だった。
波打つような豪奢な金糸の髪を高く結い上げ、氷のように冷たくも美しい水色の瞳を持っている。
身に纏うのは、最新の流行を取り入れつつも決して派手すぎない、極上の絹で仕立てられたペールブルーのドレス。
所作の端々に至るまで一切の隙がなく、まさに「完璧な公爵令嬢」を絵に描いたような姿だった。
(グランベル公爵家令嬢、セラフィーナ様……)
私は、内心で小さく息を呑んだ。
グランベル公爵家は、ヴァルフォード王国でも一、二を争う名門。そして彼女は、アレクシス殿下の最有力な『婚約者候補』と噂されている令嬢だ。
(ついに現れたわね、正ヒロイン候補)
私は壁際の彫刻のように気配を殺しながら、こっそりと彼女を観察した。
令嬢としては、文句のつけようがない。美しく、気高く、高位貴族としての威厳に満ちている。
私が夢見ている「可憐で守られる姫」とは少し系統が違うが、彼女のような完璧な令嬢が王太子妃になれば、さぞかし見栄えの良い夫婦になるだろう。
何より、王太子殿下の興味が彼女に向いてくれれば、私への執着も薄れるはずだ。
これはチャンスである。頑張れ、セラフィーナ様!
「よく来てくれた、セラフィーナ嬢。グランベル公爵の体調は良くなっただろうか」
「ええ。父も殿下のお心遣いに深く感謝しておりました」
アレクシス殿下とセラフィーナ様の会話が始まる。
……が。
(あれ?)
私は、わずかに眉をひそめた。
二人の会話が、あまりにも冷え切っているのだ。
言葉の応酬は丁寧で、非の打ち所がない。
だが、そこには全く「熱」がない。ただの外交辞令の朗読劇を見せられているかのようだ。
殿下の表情はいつもの公務用の冷徹な仮面だし、セラフィーナ様に至っては、唇の端で美しい弧を描いてはいるものの、水色の瞳は全く笑っていない。
「……」
私は、前世の『見られるプロ』としての観察眼をフル稼働させ、彼女の一挙手一投足を追った。
ティーカップを持ち上げる指先の角度。
他の令嬢たちから向けられる羨望と嫉妬の視線を受け流す時の、わずかな顎の引き方。
完璧に見えるその所作。
だが、その完璧さは、内から滲み出る余裕によるものではない。
(あの人……、無理をして演じているんだ)
私には、痛いほどよくわかった。
彼女の肩は、ほんのわずかだが強張っている。背筋を伸ばしすぎているせいで、呼吸が浅い。
それは、前世で私が「理想の男役スター」であることを求められ、どんなに苦しくても完璧な笑顔を顔に貼り付けて舞台に立っていた時の状態と、そっくりだった。
セラフィーナ様は、高慢なのではない。
『未来の王太子妃候補』であり、『完璧な公爵令嬢』でなければならないという周囲の期待に押し込められ、たった一人でその重圧と戦い、隙を見せないように必死に武装しているだけなのだ。
(もしかして彼女も、私や殿下と同じで……役割を押し付けられて、息苦しい思いをしているの?)
そう気づいた瞬間、私の中で彼女に対する警戒心がスッと溶けていくのを感じた。
恋敵どころか、むしろ同士のような親近感すら湧いてくる。
あの分厚い仮面の下で、彼女がどれほど孤独を感じているのかと思うと、胸がチクリと痛んだ。
「ローゼンフェルト。少し、国王陛下の元へ資料を届けてくる。場を頼む」
「かしこまりました、殿下」
茶会の中盤。
急な知らせを受けたアレクシス殿下が、一時的に席を外すことになった。
殿下が天幕を離れ、その姿が見えなくなった途端。
場の空気が、不穏なものへと一変した。
王太子という絶対的な抑止力が消えたことで、それまでセラフィーナ様を遠巻きに見ていた他の高位令嬢たちが、一斉に牙を剥き始めたのだ。
「それにしても、セラフィーナ様。本日のドレス、少しお地味ではございませんこと?」
扇で口元を隠した伯爵令嬢の一人が、わざとらしい高い声で切り出した。
「そうね。殿下の御前だというのに、まるで寒々しい氷のようですわ。いくら公爵家とはいえ、もう少し殿下のお好みに合わせて華やかに装うべきではありませんか?」
「ええ、本当に。殿下もさぞかし、お言葉を掛けるのに苦労なさったことでしょう」
次々と飛んでくる、棘を含んだ言葉の矢。
彼女たちは、王太子の寵愛を争うライバルたちだ。完璧すぎて隙のないセラフィーナ様をどうにかして引き摺り下ろそうと、ここぞとばかりに嫌味を浴びせかけている。
だが、セラフィーナ様は顔色一つ変えなかった。
「……ご忠告、感謝いたしますわ。ですが、私は私なりに王室への敬意を払って装ったつもりです」
凛とした声で跳ね返す。
しかし、多勢に無勢。令嬢たちの嫌味は止まらない。
「あら、ご立派なことですわね。でも、敬意だけでは殿下のお心は掴めませんわよ?」
「あの愛想のないお顔で『王太子妃候補』などと持ち上げられているなんて、殿下が本当にお可哀想」
クスクスと、悪意に満ちた笑い声が天幕の下に響く。
セラフィーナ様の水色の瞳が、微かに、本当に微かに揺れたのを、私は見逃さなかった。
彼女の膝の上に置かれた手が、ドレスの生地をギュッと握りしめている。
(……許せない)
私の胸の奥で、カチリと音がした。
前世で、陰湿な嫌がらせを受けていた後輩を助けた時と同じ、お節介なスタースイッチが入る音。
彼女は、孤立している。
あんなに綺麗に武装していても、たった一人で耐えている。
(ダメよ、リリアーナ。目立っちゃダメ。殿下にまた目をつけられるわよ!)
頭の中で理性が必死にブレーキをかける。
しかし、私の身体は、理性の命令など一切無視して、優雅な足取りで令嬢たちの輪の中へと歩みを進めていた。




