第15話 市井視察という名の二人きりのお忍びです
「……目立たない服を用意したはずだが、どうしてこうなる」
王宮の馬車の前で、アレクシス殿下が呆れたような溜息をついた。
私の身体には、地味な色合いの動きやすい旅装束が纏われている。
装飾など何もない、ただの庶民的な服だ。
だが、その服を着た私の立ち姿は、まるで舞台の衣装を纏っているかのように洗練されていた。
無意識のうちに姿勢を正し、顎を引き、相手を射抜くような鋭い視線。
変装のつもりだったが、かえって「何か重大な任務を帯びた貴公子」のようなオーラを放ってしまっているらしい。
「申し訳ありません、殿下。これ以上、どうしろと……」
「いや、いい。かえって『高貴な者の遊び』のように見えて面白い」
殿下は、私の肩をぽんと叩くと、そのまま馬車へと乗り込んだ。
私は、逃げ場のない馬車の中で、胃の痛みを堪えながら席に着いた。
市井視察。
身分を隠して民の生活を見る。
その目的は理解している。だが、なぜ護衛もつけず、私と二人きりなのか。
馬車が王宮の門を出ると、ガタゴトと心地よい揺れとともに、王都の活気が窓の外から伝わってきた。
アレクシス殿下は、窓の外を眺めながら、どこかリラックスした表情をしている。
王宮内での、冷徹な王太子としての仮面が、少しだけ緩んでいるように見えた。
「……君と二人で城を出るのは、初めてだな」
「はい。殿下にとっては、新鮮な空気かと」
私が当たり障りのない返事をすると、殿下はふっと笑った。
「新鮮、か。……君といると、不思議と堅苦しいことを考えずに済む。君のその、媚びるでもなく、かといって疎むでもない、絶妙な距離感が心地よいのだ」
殿下の視線が、私の顔に注がれる。
その青灰色の瞳には、執務室で見せるような執着だけではない、もっと素直な、青年らしい親しみが宿っていた。
馬車はほどなくして、王都で一番賑わう広場へと到着した。
私たちは馬車を降り、人混みへと足を踏み入れる。
「人が多いですね。殿下、どうか私の後ろを……」
「無用だ」
殿下はそう言うと、私の腕を強引に取り、自分の隣へと引き寄せた。
「君が迷子になっては困る」
「私は子供ではございません!」
抗議する間もなく、殿下は人波をかき分けて歩き出す。
腕を通る殿下の体温が、妙に熱い。
周りの庶民たちも、華やかな衣装こそ着ていないものの、ただならぬ美形二人組が通り過ぎるのを見て、思わず足を止めて振り返っている。
その時だった。
(……ん?)
私の男役としての勘が、鋭く警鐘を鳴らした。
人混みの中に、不自然に動きの止まった男が二人いる。
彼らは、商人や浮浪者のような格好をしているが、その視線は私たちではなく、殿下の腰に差された護身用の短剣と、私の動きを交互に探っている。
(宰相派? それとも別の……)
私は、腕を引かれるまま歩きながらも、さりげなく視線を泳がせた。
男たちが、再び不自然に動き出し、こちらを追尾してくる。
殿下は気づいていない。
(ここで騒ぎを起こせば、殿下の視察が台無しになる。……かといって、無視するわけにはいかない)
私は殿下の腕を軽く引っ張り、広場の角にある狭い路地へと誘導した。
「殿下、少しあちらの店を見てみませんか?」
「店だと? ……まあいい」
殿下は怪訝そうにしながらも、私に従った。
路地に入り、人混みが薄くなった瞬間、私は殿下の腕を強く引き、さらに奥の、人通りのない裏路地へと駆け込んだ。
「何だ、リオン!」
「殿下、お静かに!」
私は、行き止まりの壁の影に殿下を押し込み、自分もその隣に身を潜めた。
あまりの密着ぶりに、私の心臓が爆発しそうになる。
すぐそばにある殿下の体温、香水の匂い、そして荒い吐息。
「……尾行だ」
私が小声で囁くと、殿下の表情がスッと冷徹なものへと切り替わった。
「……気づかなかった。いや、君が気づいたのか」
外の通りから、怪しげな男たちの話し声が聞こえてくる。
「どこへ行った……? くそ、見失ったぞ!」
「あっちの路地か! 探せ!」
男たちの足音が、路地の入り口を通り過ぎて遠ざかっていく。
しばらくして、辺りに静寂が戻った。
ふぅ、と私は小さく息をついた。
だが、その瞬間、自分が殿下の胸元に密着していることに気づき、真っ赤になって飛び退こうとした。
「……ッ!」
しかし、殿下は私の手首を掴み、逃がさなかった。
「……君は、本当に面白いな」
殿下は、逃げようとする私を見下ろし、余裕たっぷりの笑みを浮かべた。
「危機察知能力が高いだけでなく、私の守るべき側近として、最高の働きを見せてくれる。……一体、どれだけの才能を隠し持っている?」
「才能などございません! ただの、習性です!」
「習性、か。……まあいい」
殿下は、私の手首を離すと、満足げに微笑んだ。
「君といると、飽きることがない。これならば、退屈な政務の合間の息抜きには十分すぎる」
視察の帰り道。
再び馬車に乗り込んだ私たちは、行きよりもさらに近い距離で座っていた。
「リオン」
「はい」
「今週末の夜会だが、お前の妹君にも会いたいと前にも言ったな」
「……はい」
「だが、お前自身も、もっとよく知りたい。側近としてだけでなく、一人の人間として、だ」
殿下は、私の瞳を真っ直ぐに見つめ、静かに告げた。
「私は、君のすべてを知りたいと思っている」
その言葉は、まるで逃げ場のない檻のように、私を閉じ込めた。
男装した私を、リオンとして愛しているのか。それとも、その裏にある何かを見抜こうとしているのか。
分からない。
ただ、この冷徹な王太子の瞳の中に、私への執着以外の、もっと純粋な『恋心』のようなものが混じり始めていることに気づいてしまい、私は、ただただ心臓の痛みに耐えるしかなかった。




