第13話 他国の姫君まで魅了する予定はありませんでした
「……白薔薇舞踏会には、私も顔を出すとしよう」
アレクシス殿下が微笑みながら放ったその爆弾発言から、数日が経過した。
私は毎日、針の筵に座らされているような気分で王宮の執務室に通っていた。
私が可憐なドレスを着てデビューする、一生に一度の晴れ舞台。
そこに、私の男装姿を舐め回すように観察し、執着している王太子殿下がやってくる。
少しでも気を抜いて『リオン』の癖が出れば一巻の終わりだ。どうにかして殿下の参加を阻止できないかと考えを巡らせているうちに、あっという間にその日はやってきた。
他国の使節団を歓迎する、王宮の大夜会である。
「ローゼンフェルト。私の身なりに乱れはないか」
「はい、殿下。完璧でございます。今夜の殿下は、夜空の星すら霞むほどの輝きを放っておられます」
夜会の会場となる大広間の控室。
豪奢な夜会服に身を包んだアレクシス殿下に、私は息をするように甘い賛辞を口にした。
「……君のその口のうまさ、本当に誰に似たのだろうな」
殿下が呆れたように笑うが、私はポーカーフェイスを貫いた。
前世で何千人ものファンに投げキッスを送り続けてきた私にとって、この程度の口上は挨拶にも等しい。
やがて、ファンファーレと共に重厚な扉が開かれ、私たちは煌びやかな大広間へと足を踏み入れた。
シャンデリアの眩い光、色とりどりのドレス、香水の甘い匂い。
本来なら、私もあの中でフリフリのドレスを着て、素敵な紳士にエスコートされているはずだったのに……。
(三か月の辛抱。三か月の辛抱よ……!)
私は、漆黒の礼服に身を包み、壁際の目立たない位置――側近たちの定位置へと静かに移動した。
夜会の目玉は、なんといっても王太子であるアレクシス殿下のファーストダンスだ。
相手を務めるのは、国内でも有数の高位貴族の令嬢。
広間の中央に進み出た殿下は、令嬢の前に立ち、優雅に一礼した。
そして、そっと彼女の右手を取り、腰に左手を添える。
(おおっ……!)
私は、壁際から食い入るようにその所作を見つめた。
数日前の夜、あの小サロンで私が教えた通りだ。
手の圧は強すぎず、ふんわりと包み込むように。歩幅は相手の呼吸に合わせ、半歩先をリードする。
そして何より、足元ではなく、目の前の令嬢の瞳を真っ直ぐに見つめ、優しく微笑みかけている。
いち、に、さん。いち、に、さん。
音楽に合わせて滑るように舞う二人の姿は、一枚の美しい絵画のようだった。
相手の令嬢は、最初は緊張で強張っていたが、殿下の甘いエスコートに徐々に頬を染め、夢見るような笑顔を浮かべている。
周囲を取り囲む貴族たちからも、「なんという美しいステップだ」「殿下はあのように優しく微笑まれる方だったか」と、感嘆の溜息が漏れていた。
(ふふん。見たか。あれが私が手取り足取り教え込んだ、完璧なエスコートよ!)
私は胸を張り、謎のプロデューサー目線で密かに誇らしさを噛み締めていた。
あの不器用だった殿下が、立派に『王子様』をしている。その成長ぶりを見守るのも、悪くない気分だ。
しかし、私の平穏な時間は長くは続かなかった。
ファーストダンスが無事に終わり、歓談の時間に移った直後だった。
今回の主賓である隣国の使節団の代表、シャルロッテ姫が、不意に広間の隅へと歩みを進めたのだ。
燃えるような真紅のドレスに身を包んだシャルロッテ姫は、勝気で華やかな美貌を持つ、非常にプライドの高い令嬢として知られていた。
彼女が向かった先。
そこには、壁の装飾と同化しようと必死に身を縮めている、銀糸の髪の少年――第二王子ジュリアン殿下の姿があった。
「ジュリアン殿下。私、次の曲はあなたと踊りたくてよ」
シャルロッテ姫が、扇で口元を隠しながら、通る声で宣言した。
広間の一角が、シンと静まり返る。
ジュリアン殿下は、ビクッと肩を跳ねさせ、顔を真っ青にして後ずさった。
「え、あ、その……っ! ぼ、僕はダンスが、あまり得意ではなくて……!」
「あら。この国の第二王子ともあろうお方が、他国の姫の誘いを断るというのですか? それは少々、礼を失しているのではなくて?」
シャルロッテ姫の言葉は棘に満ちていた。
彼女はおそらく、悪気があるわけではない。ただ、自分の美しさと権力に自信があり、気弱そうな王子をからかってやろうという程度の軽い気持ちなのだろう。
しかし、その周囲には、宰相派の貴族たちがニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべて集まり始めていた。
(まずい……!)
私は壁際から、嫌な汗を流した。
ジュリアン殿下は、極度の緊張と恐怖で震えている。あんな状態で無理やり踊らされれば、足をもつれさせて転倒するか、最悪の場合、過呼吸で倒れてしまうかもしれない。
ここで彼に無様な姿を晒させれば、宰相派はそれを見逃さず、ジュリアン殿下の心をさらに追い詰めるだろう。
(誰か、止めて! アレクシス殿下は……!)
視線を巡らせるが、アレクシス殿下は広間の反対側で国王陛下の傍に捕まっており、こちらに気づいていない。
「さあ、ジュリアン殿下。手を取ってくださる?」
シャルロッテ姫が、白魚のような手を差し出した。
ジュリアン殿下は、絶望的な瞳で周囲に助けを求めている。
そして、その潤んだ瞳が、壁際にいた私とバッチリと合った。
――ズキュン。
私の中で、何かが弾ける音がした。
前世で、舞台の袖で震える後輩の手を引いて、強引にスポットライトの下へ連れ出したあの時の感覚。
悲劇のヒロインを前にして、手をこまねいているだけの男役など、存在価値がない。
(ダメよ、リリアーナ! 目立っちゃダメ! 白薔薇舞踏会が……!)
理性の声は、スタースイッチが完全に入った私の身体を止めることはできなかった。
「――お待ちください、美しき姫君」
私は、静まり返った空間に、甘く、広間全体を包み込むような低音の美声を響かせた。
滑るような足取りで人垣を割って入り、ジュリアン殿下とシャルロッテ姫の間にスッと立ち塞がる。
「な、何者ですの、あなたは」
突然現れた私に、シャルロッテ姫が驚いて目を見張る。
「リオン・ローゼンフェルトと申します。王太子殿下の側近見習いを務めております」
私は右手を胸に当て、前世で磨き抜いた最高難易度の『魅惑の一礼』を披露した。
背筋のライン、顎の角度、そして顔を上げた瞬間に放つ、相手を射抜くような情熱的な視線。
「誠に申し訳ございません。ジュリアン殿下は、先ほどから少々ご気分が優れないご様子。このままお相手をさせては、姫君の美しい靴を踏んでしまうやもしれません」
「そ、そうですの? しかし、私はすでに踊る気分になって……」
「ええ、わかります。姫君のその真紅のドレス、炎のように情熱的で、踊らずにいるのは罪というもの」
私は、シャルロッテ姫の目線を一切外さないまま、半歩だけ距離を詰めた。
そして、彼女の差し出したままになっていた右手を、ひざまずきながらそっと掬い上げる。
「もしよろしければ……ジュリアン殿下の代わりに、この私が、一夜の夢のお相手を務めさせていただいてもよろしいでしょうか?」
指先に、羽のように軽い口付けを落とす。
その瞬間、シャルロッテ姫の顔が、ボンッ! と音を立てんばかりに真っ赤に染まった。
「あ、え、そのっ……」
「姫君?」
甘く首を傾げて下から見上げると、彼女は「よ、喜んで……!」と消え入りそうな声で頷いた。
背後で、ジュリアン殿下が「リオン……!」と感極まったような声を漏らすのが聞こえる。
私は立ち上がり、シャルロッテ姫の腰にそっと手を添え、ダンスの輪へと彼女をエスコートした。
(やってしまった。またやってしまったわ……!)
ワルツの軽快な音楽が流れ始める中、私は内心で激しく後悔していた。
だが、音楽が鳴り、パートナーが腕の中にいる以上、手を抜くことは『スター』の誇りが許さない。
私は、アレクシス殿下に教えた基本をさらに昇華させた、情熱的で、それでいて相手を最高に美しく見せるための完璧なステップを踏み始めた。
くるり、くるり。
私が少し強引にリードしてターンをさせるたび、真紅のドレスが花びらのように美しく翻る。
シャルロッテ姫は、完全に私に身を委ね、熱に浮かされたようなとろける瞳で私を見上げていた。
「素晴らしいわ、リオン……。あなたのような殿方が、この国にいたなんて」
「姫君の美しさが、私を魔法にかけたのですよ」
息を吐くように甘い言葉を返し、曲の最後、私は彼女の腰を抱き寄せて、ドラマチックに見得を切った。
パチパチパチパチ……!
広間を包む、割れんばかりの拍手喝采。
他国の使節団も、国内の貴族たちも、私の見事なダンスに完全に魅了されていた。
(よし、完璧! ジュリアン殿下も守れたし、王室の面子も保てたわ!)
私は優雅に一礼し、額の汗を拭った。
――しかし。
ふと視線を上げた先。
人垣の向こう側、広間の反対側で。
アレクシス殿下が、手に持っていたシャンパングラスを今にも握り潰しそうなほどの強い力で握り締めながら、こちらをじっと睨みつけていた。
その青灰色の瞳には、先ほどのファーストダンスの時の優しさなど微塵もない。
底知れない冷気と、そして、自分の所有物を他人に触れられたような、強烈でドス黒い『独占欲』が渦巻いていた。
(……ヒィッ!)
私の背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
ジュリアン殿下を助けるための行動が、またしてもアレクシス殿下の地雷を特大の勢いで踏み抜いてしまったのだ。
私の王宮での身代わり生活は、平穏とは真逆の方向へ、さらに猛スピードで転がり落ちていくのだった。




