第71話 遠ざかる喧噪
ジルニッツ王国の王都、ザッテルハイム。
難攻不落と謳われたその都市の上に、いまは黒い煙が上がっていた。
東門が開かれ、オーランジュ軍の兵たちがなだれ込んでいく。
白い城壁の内側には怒号と剣戟の音が響き、その均衡は徐々に崩れ始めていた。
押し返そうとする音が、押し込まれる音へと変わっていく。
城内のあちこちで火が上がり、煙が風に流され、兵が走り、負傷者が運ばれ、伝令が声を枯らして駆けていた。
やがて勝敗は決する。
しかし勝ったあとも戦場は静寂を取り戻すことはない。むしろそこからが混乱の始まりだった。
補給の荷車が動き、捕らえた兵たちが集められ、負傷兵の呻き響く。
前線の遥か後方に位置する炊事場も、いつも以上に慌ただしかった。
その片隅でアンナは鍋を洗っていた。
水はすぐに濁る。血のついた布を洗った桶と同じ場所に置かれているせいで、どれだけ水を替えても鉄の匂いが残った。
それでも手を動かすしかない。
止めていると、余計なことばかり考えてしまう。
エルネストは、どこへ行ったのか。
王都の中へ入ったことは知っている。
細かいことは聞かされていないが、彼が他の兵たちと一緒に動いていないことくらい、アンナにもわかっていた。
あの人には、どうしても辿り着かなければならない場所がある。
誰かを殺すためなのか。
なにかを終わらせるためなのか。
詳しい事情は知らない。けれど、アンナはエルネストが復讐のためだけに生きてきたことだけは知っていた。
復讐は果たせたのか。
いつ帰ってくるのか。
それとも、もう戻らないのか。
いくら考えても答えは出ない。
アンナは鍋の縁についた焦げをこすった。硬くこびりついた汚れはなかなか落ちず、指先に力を入れるたびに爪の間に黒いものが入り込む。
遠くで、鬨の声が上がった。
オーランジュ兵の声だった。
誰かが近くで「勝ったぞ」と言い、別の誰かが「王宮まで押し込んだらしい」と答える。声には興奮が混じっていたが、それさえもアンナにはどこか遠く聞こえた。
勝った。
そうなのだろう。
でもアンナにとっては、エルネストが戻ってこなければ、まだなにも終わっていなかった。
桶の水面が、かすかに揺れた。
足音が近づいてくる。
兵かと思って顔を上げたアンナは、そのまま手を止めた。
煙の向こうから、黒い外套の男が歩いてくる。
エルネストだった。
顔も髪も外套も、血と煤で汚れている。右顔の火傷跡はいつも以上に黒く見え、手にした剣も鞘に収められていない。
それは戦場から戻ってきた姿として、なにもおかしいところはなかった。
しかし、ひとつだけ異様なところがある。
それは——腕の中に赤子を抱いていたことだ。
布に包まれた小さな体。
眠っているのだろうか。泣いてはいない。
エルネストは、その赤子を落とさぬよう注意深く抱いていた。
その姿には違和感しかなかった。
血に汚れた死神のような男が胸に赤子を抱いている。
しかし奇妙なことに、その様子に危なげはなかった。腕の位置も、頭を支える手つきもどこか慣れている。まるで、かつて何度もそうしてきたことがあるかのように。
アンナは桶の前にしゃがみ込んだまま、しばらく声を出せなかった。
その前でエルネストが足を止める。
相変わらずなにも言わない。
アンナは濡れた手を布で拭き、ゆっくり立ち上がった。
聞きたいことは、いくらでもあった。
戦いはどうなったのか。
復讐は終わったのか。
その子は誰なのか。
なぜ抱いているのか。
けれど、最初に出た言葉はまったく違っていた。
いつもと同じ、短い言葉。
「お帰りなさい」
エルネストはわずかに目を動かした。
「あぁ」
いつもと同じ、短い返事だった。
アンナは小さく息を吐いた。胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどける。
どんな姿であれ、戻ってきた。
まずはそれでよかった。
ほっとしたのも束の間、アンナはエルネストの腕の中へ視線を落とした。
「その子……どうしたんですか」
言われてエルネストが下を見る。
赤子が小さく体を動かし、それに合わせて自然に抱き直した。
そして答える。
「連れてきた」
それだけだった。
アンナは瞬きをする。
「連れてきたって、どこから……」
言いかけて、やめる。
軽く聞いていいことではないと、すぐにわかった。
赤子の身なりは、ただの戦災孤児のものではない。包まれている布も上等だし、額にかかる薄い髪も綺麗に整えられている。
なにより、その抱き方が違っていた。
拾った荷物ではない。
奪った戦利品でもない。
大切に、守るように抱いている。
アンナは赤子を見つめて、静かに尋ねた。
「その子、どうするんですか?」
エルネストは、遠くザッテルハイムの方を見た。
燃える王都。
黒い煙。
勝者の声。
敗者の悲鳴。
それらを背に受けながら、彼は迷いなく答えた。
「育てる」
アンナは息を呑んだ。
その言葉はあまりに短かったけれど、それはエルネストがこれからも生きると言ったのと同じことだったからだ。
自分以外の誰かのために、次の日を迎えるという意味でもある。
アンナはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ首を傾ける。
「……ひとりで?」
エルネストは答えない。
もしくは、答えられなかったのかもしれない。
彼は強い。
誰よりも強い。
けれど、赤子を育てることと、敵を斬ることはまるで違う。
アンナはその沈黙を待った。
やがて、濡れた手をもう一度布で拭いてから口を開いた。
「私も行きます」
ようやくエルネストの視線がアンナへ向いた。
それをアンナはまっすぐに見返した。
「その子を育てるんですよね。なら、ひとりでは無理です」
エルネストはなにも言わない。
「エルネストさんは強いです。でも、赤ちゃんの世話は剣でどうにかできるものではありません」
いつもの口調だった。
しかし、声には決意のようなものが滲んでいた。
「だから、私も行きます」
エルネストはしばらく黙っていた。
遠くで、また鬨の声が上がる。近くでは負傷兵が呻き、誰かが水を求めていた。
戦場はまだ動き続けているのに、二人の間だけは奇妙に静かだった。
やがて、エルネストが口を開いた。
「……好きにしろ」
その言葉に、アンナは小さく頷く。
「はい」
それで話は終わった。
アンナは荷物を持たなかった。もともと、彼女に私物などほとんどない。
使っていた布を一枚取り、腰に巻いていた小袋を確かめると、桶のそばに置いたままの木椀を見て少しだけ迷った。
でも、手に取らなかった。
エルネストが赤子を抱いたまま歩き出す。
アンナはその隣へ並んだ。
背後では、ザッテルハイムが燃えている。
白い城壁は煙に霞み、王宮の尖塔も黒い空の中に滲んでいた。
そこではいまも誰かが戦い、誰かが死に、誰かが捕らえられている。
けれど、エルネストは振り返らない。
アンナも振り返らなかった。
小さな赤子だけが、腕の中で静かに寝息を立てていた。
その姿を、少し離れた場所から見ている者がいた。
ハインツである。
隣にはマティアスが立っていた。
エルネストとアンナが赤子を連れて戦場から離れていく。
兵たちは慌ただしく動いていたが、その三人に気づいた者は少なかった。気づいた者も、どう扱えばよいかわからず、ただ見送るだけだった。
それを見たマティアスが低く言う。
「閣下」
「あぁ」
「追わなくてよろしいのですか」
ハインツはすぐには答えなかった。
エルネストが抱く赤子が何者なのか、想像がつかなかったわけではない。
王宮の奥からわざわざ連れ出してきた赤子。
しかも王妃は産後間もない。
ならば、考えられる名はひとつ。
ジルニッツの王太子、マクシミリアン・フリードリヒ・フォン・ジルニッツ。
確証はない。だが、そう見るべきだった。
生かして手元に置けば、使い道はいくらでもある。傀儡にすることも、人質にすることも、ジルニッツの民を従わせるための札にすることもできる。
だが、ハインツは短く答えた。
「追うな」
マティアスは表情を変えずに、わずかに目を細めた。
「王太子である可能性がございます」
「だろうな」
「よろしいので」
「かまわん」
ハインツの声は乾いていた。
「どのみち、あの男を縛ることなどできん。追えば兵が死ぬ。取り返せたとしても、あの男を敵にすることになる。割に合わん」
それは情ではなく、計算だった。
エルネストは役目を果たした。
東門を開き、ザッテルハイムを落としている。その時点で、ハインツにとって必要な仕事は終わっていた。
いまさら赤子ひとりのために、あの化け物を追う意味は薄い。
「政治のことは政治家に任せろ」
ジルニッツを治めるための駒なら他にもある。
王家の血を引く者は、あの赤子ひとりではない。利用できる者はまだ残っている。
去りゆく背中を見ながら、ハインツは言った。
「好きにさせてやれ」
マティアスは一礼した。
「承知しました」
ハインツはそこで、もう興味を失ったとばかりに踵を返した。
彼にはまだやるべきことが山積している。
王宮の制圧。
捕虜の管理。
軍紀の維持。
王族の処遇。
そして、これから始まる占領の始末。
戦は勝てば終わりではない。勝ったあとには、戦以上の面倒を片付けなければならなかった。
ハインツはザッテルハイムへ向かって歩き出した。
マティアスもその後に続く。
その背後で、エルネストとアンナは赤子を連れて戦場から遠ざかっていった。
勝者の声も、敗者の悲鳴も、まだ消えてはいない。煙は空へ流れ、赤い夕陽がその向こうに滲んでいる。
それでもエルネストは振り返らなかった。
赤子を抱き、アンナとともに、遠ざかる喧噪の向こうへゆっくりと消えていった。




