第70話 罪と罰
血に濡れた剣を下げたまま、エルネストがコルネリアの前に立つ。
壁際で震えていた侍女も、剣を構えたリリィも、そしてコルネリア自身も、エルネストが刃を振り上げるのだと思っていた。
だが彼は、そのままコルネリアの傍らを通り過ぎていく。
コルネリアの眉がわずかに動いた。
首を刎ねるのだろう。胸を貫くのではないか。床へ引き倒し、すべての恨みをぶつけるのかもしれない。そう思っていた。
しかし予想に反して、エルネストは寝台の横に置かれた揺りかごの前に立った。
豪奢な白木の揺りかご。
その中で赤子が眠っていた。小さな胸が上下し、布に包まれた手がかすかに動く。戦の音も、部屋の張り詰めた空気も知らない、無垢な赤子の眠りだった。
エルネストは剣を持つ手を下げたまま、もう片方の手を伸ばす。
その時、初めてコルネリアの顔から余裕が消えた。
「――なにをする」
低く漏れた声には、明らかな動揺が混じっていた。
だがエルネストは止まらない。
揺りかごの中へ手を差し入れ、布ごと小さな体を抱き上げた。
その動きは驚くほど滑らかで危なげがない。首を支え、体を胸へ寄せる所作には、かつて何度も同じ重みを腕に抱いた者の慣れがあった。
マクシミリアンが身じろぎする。
薄く目を開きかけ、また閉じた。泣きはしない。小さく息を漏らしただけで、血と煤に汚れた男の腕の中におとなしく収まった。
「やめろ!」
叫びながら、コルネリアが一歩踏み出す。
「その子に触れるでない!」
声が裏返っていた。
先ほどまでの冷笑も、王妃としての威圧ももはや消え失せている。あるのは、理解の外にあるものを見せられた狼狽だった。
「返せ!」
コルネリアが手を伸ばす。
「その子を渡すのじゃ!」
エルネストは答えずにマクシミリアンを抱き直した。赤子の頭が揺れないよう、布ごと胸へ寄せる仕草には、やはり慣れが見えた。
リリィは動けなかった。
目の前にいるのは、王子を奪おうとする悪漢である。本来なら、即座に取り返さなければならないところだ。
それなのに足が動かない。
ここで斬りかかれば、王子を巻き込んでしまう。剣を振れば、刃が赤子のすぐそばを通る。
魔法など論外だ。この狭い部屋で術式を放てば、誰に当たるかわからない。
手を出せず、リリィが歯嚙みする。
「よせ! どうする気じゃ!」
コルネリアが叫んだ。
「その子に罪はない!」
必死な言葉が部屋に落ちた。
子に罪はない。
それは、かつてこの女が奪わせた命にも当てはまる。
妻に罪があったのか。幼い娘に罪があったのか。
その矛盾に、コルネリア自身が気づいているかはわからない。ただ、彼女はいま心の底からそう叫んでいた。
子には罪がない、と。
エルネストは表情を動かさない。
それでも、ようやく口を開いた。
「そうだ」
低く、平らな声。
「子に罪はない」
たった一言、それだけだった。
コルネリアは言葉を失った。
リリィもまた、なにも言えない。
その言葉の奥になにがあるのか。すべてを知っているわけではないにせよ、リリィにわからぬはずもない。
この男の娘にも罪はなかった。
それでも殺された。
だからこそ、この男は同じことをしないのだ。少なくとも、殺すために赤子を抱いているのではないはずだ。
エルネストの腕の中。抱かれるマクシミリアンをリリィは見た。
赤子は小さく身じろぎし、布の中で顔をわずかに傾けている。薄い髪が額にかかるその顔は、罪を問うにはあまりに幼すぎた。
王太子。
亡国の王子。
利用価値のある血。
いくらでも言葉はあるだろう。しかし、どう言葉を飾ろうとも、そこにいるのはただの赤子でしかなかった。
外では王宮が崩れようとしている。
東門からなだれ込んだオーランジュ兵は、もう近くまで迫っているはずだ。怒号と剣戟が迫り、悲鳴が幾重にも重なって聞こえてくる。
マクシミリアンはどうなるのか。
コルネリアの腕に戻せば守られるのか。自分が抱いて逃げれば守り通せるのか。
正直、リリィには自信がなかった。
今の王宮に安全な場所などありはしない。王妃の私室でさえ、こうして血に濡れた男が辿り着いているではないか。
ここで王子を取り返したとしても、その先はないのかもしれない。
しかしエルヴァンは違う。
この男は決して王子を殺さない。殺させない。
それだけは、もうわかってしまった。
コルネリアの言葉が、リリィの中に重く沈む。
『この子が誰の血を引いておるのか、其方にわからぬはずもあるまい?』
確信はない。証拠もない。だが、エルネストがマクシミリアンに見せた一瞬の揺れと、腕に抱く姿を見れば、答えは自ずとわかるはずだ。
リリィはゆっくりと剣先を下げた。
その姿に、コルネリアが目を見開く。
「女騎士!」
咎める声だった。
しかしリリィは王妃ではなく、エルネストを見て掠れた声で言った。
「行け」
エルネストは答えない。
リリィはさらに重ねる。
「いいか。王子を絶対に守り通せ」
剣を握る手に力が入る。
「何があってもだ」
その言葉にもエルネストは頷かなかった。
礼も言わず、約束の言葉もない。ただ、マクシミリアンを抱く腕にほんのわずかに力を込めた。
それだけだった。
しかし、リリィにとってはそれで十分だった。
「何をしておる!」
コルネリアが体を震わせて叫んだ。
「女騎士よ、マクシミリアンを取り戻せ! その子は王太子なのじゃぞ!」
言いながらコルネリアがエルネストへ縋ろうとする。
化粧は浮き、髪は乱れ、衣の裾はほつれて、もはや王妃としての威厳も尊厳も保てていなかった。
迫るその手を、エルネストは片腕で払う。
乱暴ではなかったが、しかし容赦はなかった。
コルネリアがよろめき、寝台の端へ手をつく。
「マクシミリアン!」
叫びが部屋に響いた。
「やめろ! 連れて行くでない!」
それでもエルネストは振り返らなかった。
殺しはしないが、救うつもりもない。
彼女が最後に愛し、信じたものを、その腕から奪っていく。それがいま彼にできる最大の復讐だった。
その様子を、リリィは黙って見ていた。
王国の騎士として、間違っているのかもしれない。王子が奪われるのを看過するなど、到底許されることではないだろう。
しかし同時に思う。
いま、この場で一番に守るべきものはなにか。
王妃の体面か。
滅びゆく王家の形か。
それとも、腕の中で眠る赤子の命か。
考えるまでもない。答えはもう出ていた。
エルネストが扉へ向かう。
部屋の外から怒号が響いてきた。王宮の奥へ敵が近づいてくる。逃げ惑う女官たちの悲鳴と、兵が倒れる音が廊下で混ざり合う。
侍女は壁際で震えたまま動けない。
コルネリアだけが床に膝をつきながら、なお手を伸ばしていた。
「マクシミリアン!」
その声は、もはや王妃のものではなかった。命令でも、嘲笑でも、誇りでもない。ただ、我が子を奪われた母の声だった。
エルネストが扉を開けると、血と煙の匂いが流れ込んできた。
しかし彼は表情もなく、マクシミリアンを抱き直して歩き出した。
裂けるようなコルネリアの叫びが、背後で響いている。
それでもエルネストは、一度も振り返らなかった。
復讐のためだけに生きてきたエルネスト——勇者エルヴァン。
彼が最後に選んだ復讐の形は、「殺さず奪う」ことでした。
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