第69話 対峙
白銀宮の奥、内向きの区画は、外の騒ぎから切り離されたように静寂が支配していた。
コルネリアの私室にあるのは、甘い香油の匂いと、白木の揺りかごのかすかな軋みだけ。
その揺りかごの中では、王子マクシミリアンが静かに眠っていた。
小さな胸が規則正しく上下する。
遠くで響く戦の音は、その幼い眠りを妨げてはいなかった。
しかしその静けさは、扉を叩く激しい音に遮られた。
「王妃殿下!」
侍女が駆け込んでくる。顔は青ざめ、息は乱れていた。
普段なら到底許されぬ無作法だが、いまはそれを咎める者はいなかった。
「東門が突破されました。敵が城内へ……どうか、お逃げください」
部屋の主――コルネリアは答えない。
まず、揺りかごの中のマクシミリアンを見た。赤子は眠っている。薄い髪が額に張りつき、小さな手は布の端を掴んでいた。
それを確かめてから、コルネリアは侍女へ視線を戻した。
「門は破られた。下郎どもが押し寄せてきた」
声は静かだった。
「この状況で、どこへ逃げろと言うのじゃ」
侍女は言葉を失った。
コルネリアは戦に通じた女ではない。けれど、王宮の奥まで伝令が走り、女官が悲鳴を上げ、侍女が取り乱して逃げろと叫ぶ状況がなにを意味するかくらいはわかる。
すでに手遅れだった。
カッサリアの援軍が来る。そう聞かされていたし、王宮内の者たちもその言葉に縋っていた。
しかし、その後の報せがないうえに、いま来たところで遅すぎる。門が破られた時点で、王都はもう崩れてしまった。
コルネリアが静かに息を吐く。
自分の命は盤面から落ちた。もはや元には戻せない。
だが、それで終わりではなかった。
マクシミリアンが生きている限り、この血は続く。
オーランジュとて、王家の血の利用価値を知らぬほど愚かではあるまい。
だから、まだ負けてはいないのだ。
少なくとも、彼女はそう考えていた。
その時、扉の外が騒がしくなった。
最初に聞こえたのは低い話し声。
次いで鋼のぶつかる音。
一度ではなく、二度、三度と、狭い廊下に剣戟の響きが走る。
それは護衛たちが駆けつけたのではなく、扉の前に踏みとどまった誰かが、何者かを止めようとしている音だった。
コルネリアには、それが誰なのかすぐにわかった。
ルッツだ。
騎士長ルッツ。
最後まで自分の扉の前に立つ男。
音に気圧された侍女が壁際へ後ずさる。しかしコルネリアは動かなかった。
鋼の音がもう一度強く鳴り、なにか重いものが床へ崩れる。
それきり廊下は静かになった。
短い静寂のあとに扉が開く。
そこへ入ってきたのは死神だった。
それを見た侍女は声にならぬ悲鳴を漏らし、壁に背を押しつけた。
コルネリアは瞬時に理解する。
顔の半分が焼け爛れ、髪も外套も血と泥と煤にまみれている。右手に下げた剣からは鮮血が滴り、扉の向こうには倒れたルッツの姿があった。
かつてジルニッツの守護者と呼ばれた男。
災害と言われた邪竜を屠った国の英雄。
そして――自分が葬ったはずの男。
勇者エルヴァン・レヒナー。
コルネリアは、顔色ひとつ変えずに言った。
「よう来たな、エルヴァンよ」
冷静なだけではない。その声には、かすかな笑みさえ混じっていた。
「ほんに、久しいのぉ」
エルネストは黙ったまま、なにも答えない。
表情もなく、ただ立っている。焼けた右顔も、残った左目も怒りを映してはいない。それがかえって、ひどく不気味に見えた。
コルネリアがゆっくりと顎を上げる。
「殺したければ殺すがよい。わらわは逃げも隠れもせぬ」
侍女が息を呑む。だが、コルネリアの声に揺れはなかった。
「其方がここへ来ることは、わかっていた」
エルネストは黙ったまま。
「妻子を奪われ、国に捨てられ、名を失い、それでもここまで来た。ならば、最後にわらわの前へ立つのは当然じゃ。――いや、必然と言うべきか」
その言葉にも、エルネストは反応しなかった。
それでもコルネリアは話し続ける。
沈黙が怖いからではない。この男の前で、最後まで自分を失わないためだった。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
荒い息。
甲冑の擦れる音。
部屋の中へ一人の騎士が飛び込んでくる。
リリィだった。
「王妃殿下、ご無事ですか!」
彼女は室内を見るなり、すぐに剣を構えた。
「エルヴァン、剣を捨てろ!」
その声に迷いはない。
しかしコルネリアは安堵するどころか、わずかに眉をひそめて言った。
「下がれ」
リリィが目を見開く。
「しかし、殿下!」
「聞こえなんだか。下がれと言うた」
決して歓迎していない、冷たい声。
リリィが唇を噛む。
「この男は――」
「黙れ。わらわはいま、此奴と話をしておるのじゃ」
コルネリアはリリィを見た。
「邪魔をするでない、騎士風情が」
リリィの顔に不満が浮かぶ。
しかし王妃本人に命じられてなお、力ずくで割って入ることはできない。
まして、揺りかごには王子がいる。ここで無理に斬り結べば、なにが起きるかわからなかった。
仕方なく、リリィは数歩だけ後ろへ下がる。
剣は下ろさず、コルネリアとエルネスト、そして揺りかごのマクシミリアンを同時に視界へ収める位置に立った。
コルネリアは、それでよいとばかりに小さく頷き、視線を戻した。
「憎いか」
再びエルネストに向けて言う。
「そうじゃろうのぉ。其方の妻と子を殺した女じゃからな。当然じゃ」
その言葉に、リリィの手が剣の柄を握り直す。
室内の空気が沈んだが、エルネストはなにも言わない。
「もはやこれまで。其方に手を下されるまでもなく、わらわは死ぬであろう」
コルネリアは続ける。
「じゃが、それで終わりではない」
視線が揺りかごへ移った。
「この子が生きる限り、血は続く」
マクシミリアンは眠っていた。外の戦も、部屋の張り詰めた空気も知らずに、小さな寝息を立てている。
「オーランジュはこの子を殺せぬ。生かして利用せねばならぬからじゃ。亡国の王子は、死体にするより生きた駒にする方がはるかに値打ちがある」
それは母の言葉でありながら、同時に国母の言葉でもあった。
我が子を案じる響きの奥に、王妃としての計算がある。その両方が、いまのコルネリアを支えていた。
「そして」
彼女は再びエルネストを見た。
「其方にも、この子は殺められぬ。いかに復讐と称したところでのぉ」
エルネストの視線が初めてわずかに動いた。
それを見たコルネリアが薄く笑う。
「わからぬとは言わせぬぞ」
聞いたリリィが息を潜めた。
コルネリアの言葉がどこへ向かおうとしているのか。その先を聞きたくないような、聞かなければならないような気がした。
コルネリアは静かに言う。
「この子が誰の血を引いておるのか、其方にわからぬはずもあるまい?」
リリィの表情が変わる。
同時に、胸の奥でなにかが音を立てて噛み合った。
王妃コルネリア。
勇者エルヴァン。
殺された妻子。
消された名。
そして、王子マクシミリアン。
すべてを理解したわけではないが、欠けていたものが急に形を持ち始める。
リリィは揺りかごの中の赤子を見た。
薄茶色の髪。
まだなにも知らない寝顔。
そして、エルネストの反応。
それだけで十分だった。
コルネリアはなおも笑っていた。
「さあ、どうする。エルヴァンよ」
その声には、勝ち誇った響きすらあった。
「わらわを殺すか。――よかろう、斬るがよい。じゃが、この子には触れられぬ。オーランジュも、其方もじゃ」
エルネストはなにも答えない。
ただ、剣を握ったまま一歩を踏み出す。
リリィが息を呑んだ。
コルネリアは逃げようとしない。それどころか、むしろ尊大に胸を張った。
その横でマクシミリアンが小さく身じろぎする。
それでも、エルネストは止まらない。
一歩、また一歩と近づいていく。血に濡れた剣の切っ先から赤い雫が床へ落ちた。
侍女が壁際で震え、リリィの剣先がわずかに揺れる。その中で、コルネリアだけは最後まで顎を上げていた。
その顔は、王妃そのものだった。
死を前にしてなお、自分が屈することだけは拒む女の顔。
そしてエルネストは、ついに彼女の前へ立った。
そろそろ完結します。
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