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第68話 安堵

 東門が開いたという報は、瞬く間に城内へ広がった。


 ザッテルハイムの城門は厚く、門楼には兵が詰め、城壁上には数多の弓兵と魔法騎士が並んでいる。

 だから外から破られたのならまだしも、内側から奪われたなど、(にわ)かに信じられる話ではなかった。


 はじめは、なにかの間違いだと誰もが思った。

 しかし現実に、東門からなだれ込んだオーランジュ軍は城内の通路へ広がり始めていた。

 石畳の上で槍がぶつかり、逃げ惑う民の悲鳴が兵たちの怒声に踏み潰されていく。


 正面で囮にされていた戦奴隷たちにも、すぐに前進の命令が飛んだ。


「進め! 城内へ入れ!」


「ふざけんな! さっきまで門前で死ねって言ってたじゃねぇか! 今度は中で死ねってか!」


 エティが盾の陰で喚いた。

 バートは煤と血に汚れた顔で、うんざりしたように息を吐く。


「生きてるか、エティ」


「今のところはな! けど、次の角を曲がったら知らねぇ!」


「上出来だ」


「どこがだよ!」


 それでも二人は立ち上がるしかなかった。

 後ろから押され、前から怒鳴られ、足元には倒れた兵が転がっている。戦奴隷に選べる道などなく、進まなければ味方に踏み潰されるだけだ。


 城内へ入ったところで、状況が楽になるわけではない。狭い通路では槍が突き出され、窓からは石が落ち、曲がり角の向こうにはジルニッツ兵が待ち構えている。


 それでも空気は変わっていた。

 城壁の外で押し返されていた時とは違い、いまは内側へ食い込んでいた。


 バートは崩れた隊列の向こうに見える、白い王宮を見上げた。


「……とうとう来ちまったな」


「なにが」


「終わりだよ」


 エティは一瞬だけ黙り、それから顔をしかめた。


「だったら早く終わってくれ。俺はもう十分ひどい目に遭ってきた!」


「まだ終わってねぇから、こうして走らされてんだろうが」


「やめろ。現実を言うな!」


 二人は悪態をつきながら、押し寄せる兵の流れに呑まれていった。



 ◆◆◆◆



 ディーターは東門が開いたという報を聞いても、しばらく表情を変えなかった。

 いや、変えなかっただけだ。彼の中ではすでに答えが出ていた。


 東門が破られた。

 カッサリアは来ない。

 オーランジュの主力は城内へ入った。


 それでも彼は立ち続けていた。


「王宮前へ防衛線を下げる」


 短く命じる。

 副官が目を見開いた。


「王宮前、ですか」


「東門を奪い返す余裕はない。押し戻そうとすれば潰される。通路を絞れ。広場では受けるな。狭いところで止めろ」


「ですが、北と西の兵は――」


「必要な分だけ引け。逃げるなと言っているのではない、列を保ったまま下がれと言っている」


 ディーターの声に迷いはなかった。


 勝てるとは思っていない。

 だが、崩れる速度はまだ遅らせられる。


 兵が乱れれば、民も逃げ場を失う。王宮まで一気に食い破られれば、もはや降伏の形さえ整わないだろう。

 ならばわずかでも時間を稼ぎ、少しでも秩序を残して負けるしかなかった。


 副官が走り出す。

 ディーターは城内へ流れ込むオーランジュ兵を見た。

 その奥で剣戟の音が響き、魔法の光が弾け、味方がまだ抗っている様子が窺えた。


「まだ終わっていない」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 終わりが決まっていても、その瞬間までは戦わねばならない。

 それが軍人の仕事だった。



 ◆◆◆◆



 白銀宮の一室では、国王フリードリヒが椅子に腰を沈めたまま動けずにいた。


 遠くから聞こえる戦の音が、徐々に近づいてくる。

 それは王都の外で鳴る音ではなく、白銀宮へ迫ってくるものだった。


「ヨッヘム……」


 フリードリヒの声はかすれていた。


「どこへ逃げればよい」


 宰相ヨッヘムは、しばらく王を見つめていた。

 老いた顔に恐怖がないわけではない。けれどそこには、すでに別のものが浮かんでいた。それは敗北そのものではなく、敗北の後になにを残すかを考える者のそれだった。


「陛下、逃げ場はございません」


 静かな声だった。

 フリードリヒの唇が震える。


「では、どうせよと言うのだ」


「王として、お立ちください」


「王として……?」


「敵の前に出るのです。這ってではなく、隠れてではなく、王として堂々と」


 フリードリヒは理解できないようだった。

 いや、理解したくないだけなのかもしれない。


 かまわず、ヨッヘムは続ける。


「城は落ちます。もはや、それは覆りません。であれば、次に考えるべきは王都と民にどれだけ災いを残さずに済ませるかです。」


「余は……殺されるのか?」


「その可能性は高うございます」


 躊躇はなかった。

 フリードリヒの顔がさらに白くなる。


「ですが、王が最後にどう振る舞ったかは残ります。見苦しく逃げ惑う王を捕らえたのと、自ら降伏を告げた王を処するのとでは、敵の扱いも変わりましょう」


「余に、死ねと申すのか」


「陛下に、王であれと申し上げているのです」


 その言葉は冷たい。

 しかしその奥には、まだ国を見ている者の意志があった。


 廷臣たちは誰も口を挟まない。すでに荷をまとめようとしていた者もいたが、ヨッヘムの言葉に手を止めていた。


 フリードリヒが震える手で椅子の肘掛けを掴む。

 立ち上がろうとして膝が笑った。

 ヨッヘムが一歩近づき、王の腕を支えた。


「陛下」


 その声は少し柔らかかった。


「せめて、最後だけは」


 フリードリヒはなにも答えず、ゆっくりと立ち上がった。



 ◆◆◆◆



 王宮の奥へ向かう廊下は混乱に満ちていた。


 女官が走る。

 侍女が泣きながら荷を抱える。

 負傷した兵が壁にもたれて呻いている。


 その中をエルネストは歩いていた。

 走ってはいない。急いでいないわけでもないが、歩調に乱れはなかった。


 邪魔をする兵だけを斬り、剣を向けぬ者には見向きもしない。

 逃げる女官が足をもつれさせ、彼の前に倒れ込んだ。エルネストは立ち止まらず、ただ一歩横へずれて通り過ぎる。

 女官は声も出せず、床にうずくまったまま震えていた。


 かつて幾度も歩いた王宮の廊下。

 迷わずさらに奥へ向かう。


 白銀宮の内向き。

 王妃の私室。


 その扉へ至る廊下の前に、一人の騎士が立っていた。


 騎士長ルッツ。

 王妃の護衛騎士たちを束ねる歴戦の勇士。


 輝く白銀の甲冑は煤で汚れ、肩には血が滲んでいる。

 しかし背筋は曲がっていない。剣を抜き、廊下の中央に立ち、王妃の部屋へ向かう道を塞いでいた。


 その姿を前に、エルネストは足を止めた。


「お前か」


 低い声だった。

 ルッツの眉がかすかに動く。


「覚えていたか」


「あぁ」


 忘れるはずがなかった。


 妻の悲鳴。

 娘の血。

 その場に立っていた男。


 命じたのはコルネリアだ。

 しかし、剣を振ったのはこの男だった。


 ルッツは剣を構える。


「ここから先へは行かせぬ」


 エルネストはなにも言わない。

 ルッツは少しだけ息を吸った。


「あれは王妃殿下の命だった」


「知っている」


 即答だった。

 ルッツの目が細くなる。


「ならば――」


「だが、斬ったのはお前だ」


 その一言で、廊下の空気が沈んだ。


 ルッツは反論しなかった。

 命令だった。王妃の命だった。王家に仕える騎士として、拒むことはできなかった。


 言い訳はいくらでもあったはずだ。

 だが、言わずに剣を上げる。


「ならば、ここで終わらせる。殿下のためではない……俺自身のけじめだ」


「あぁ」


 エルネストも剣を構えた。

 次の瞬間、ルッツが踏み込んだ。



 騎士長の名に恥じぬ速さだった。

 まっすぐではない。わずかに軸をずらし、剣先を遅らせて相手の受けを外す。狭い廊下でも無駄なく動く、鍛え抜かれた騎士の剣だった。


 それをエルネストは正面から受けた。


 一合。

 二合。


 金属音が廊下に鳴る。

 ルッツの剣は速く、重く、鋭い。そこらの兵とはまるで違う。踏み込みにも一切の迷いがない。死ぬつもりでありながら、それでも勝ちに来る剣だった。


 けれど、届かない。


 三合。

 エルネストの剣がルッツの刃を押し流した。

 体勢が崩れる。


 ルッツはすぐに立て直そうとしたが、エルネストはその隙を待たなかった。そのまま踏み込み、肩口から胸へ斜めに斬り下ろす。


 血が散る。


 剣が床を叩く。


 遅れて、体が膝から崩れた。


 それでもルッツは、すぐには倒れない。剣を失った手を床につき、血を吐きながらかろうじて身を支えていた。

 その顔に、ほんのわずかに安堵のようなものが滲んだ。


 エルネストはそれを見た。


 許したわけではない。

 悼む理由もない。


 ただ、この男もまた、あの夜からずっと終われずにいたのだと知った。


「王妃、殿下……」


 それが最後の言葉だった。

 ルッツは力を失い、床へ崩れ落ちた。



 エルネストは、倒れた男を見下ろそうともしない。

 そこにはなんの感情も感傷もなく、彼にとっては、ただ障害がひとつ減っただけだった。 


 命じた女は、この扉の向こうにいる。


 血に濡れた剣を下げたまま、エルネストは王妃の私室へ向かった。

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