最終話 歩む道
ついに最終話です。
戦が終わってから、すでに数か月が過ぎていた。
ザッテルハイムを見下ろす郊外の丘に、肌を刺すような冷たい風が吹く。
そこはかつてハインツが王都を見渡した場所だった。
白い城壁と尖塔を見下ろし、どこを押さえ、どこから崩すかを考えた場所。
いまそこに立っているのは、ジルニッツの魔法騎士だったリリィと、その副官のオスカーだった。
王都はまだ傷だらけだ。
東門周辺には足場が組まれ、崩れた石壁に粗い補修が入っている。焼け跡には仮の屋根がかけられ、荷車が行き交い、オーランジュ兵が要所に立っていた。
旧ジルニッツの兵や民たちも、労役として、あるいは生活のために瓦礫を運び、道を直し、焼けた建物を片づける。
あの日の煙はすでにない。
だが、焦げた匂いだけは、まだどこかに残っていた。
リリィは鎧を着ていなかった。
白いブラウスに、動きやすい細身のズボン。腰に剣を下げてはいるが、それは自衛のためでしかない。
全身が騎士服に近い装いだが、いまの彼女はもう魔法騎士隊の副隊長ではなかった。
「随分、片づきましたね」
オスカーが王都を見下ろしながら言う。
「数か月でこれなら、よくやっている方だろう」
リリィは淡々と答える。
「片づけるのは生き残った者の責務だ。死んだ者には頼めん」
「相変わらず、硬い言い方ですね。まぁ、あなたらしいですけど」
「らしい、とは何だ。柔らかく言っても瓦礫は軽くならんだろう」
変わらぬ様子に、オスカーは苦笑した。
しばらく二人は黙って王都を見ていた。
白銀宮の尖塔は遠目には美しく見える。けれど近づけば、焼けた壁も、砕けた石畳も、染みついた血もまだ残っていた。
「フーベルトゥス大公の到着を待ってからは、早かったですね」
オスカーが言う。
「ああ。王と王妃をどうするかなど、最初から決まっていたのだろう」
リリィは短く頷いた。
オーランジュ大公国の支配者であるフーベルトゥス大公。彼がザッテルハイムへ入ったのは、陥落からしばらく後のことだった。
軍による占領と治安維持が整えられ、主要な貴族と廷臣たちが集められ、そのうえで正式な処断が下された。
国王フリードリヒは処刑。
王妃コルネリアもまた、処刑された。
「陛下は、最後は逃げなかったそうですね。ヨッヘム殿に支えられて、自分の足で敵将の前へ出たとか」
「震えてはいたらしいがな」
リリィは淡々と言った。
「だが、自ら敗戦を認めた。最後の最後で、王としての形だけは守ったのだろう」
「王妃殿下は……最後まで王太子の名を呼んでいたそうですね」
その言葉に、リリィは少しだけ目を伏せた。
「ああ」
風が吹いた。
丘の草が低く揺れる。
「ジルニッツの毒婦と呼ばれた姿は、そこにはなかったと聞いた。ただ、子を奪われた母だけがいたそうだ」
「それを聞いても、副隊長は驚かなかったでしょう」
「……まあな」
リリィは短く答えた。
あの部屋にコルネリアはいた。
彼女が王妃の顔を失いながら、マクシミリアンの名を叫んだ瞬間を見てしまったのだ。だからこそ、噂で聞く処刑の場面も想像できてしまう。
同情ではない。
許しでもない。
ただ、最後に残ったものが何だったのかを、知っているだけだった。
「ヨッヘム殿は、まだ王宮で働いているそうですね」
オスカーが続けた。
「侯爵位は剥奪。領地も没収。それでも旧ジルニッツの実務を知る者として、生かされたのでしょう」
「あの人を殺せば困るのはオーランジュだ。帳簿も、貴族名簿も、土地台帳も、税の仕組みも、すべてあの人の頭に入っている」
「権力者としては終わったが、実務家としては残された、と」
「そういうことだ」
リリィは王都へ視線を向けたまま言った。
「あの人らしい末路だと思う。逃げるでもなく、殉じるでもなく、ただ後始末をしている」
「それを言えば、ディーター閣下も似たようなものですね」
「ああ」
リリィは頷いた。
「敗軍の将として殉じるつもりだったらしいが、ハインツ辺境伯に止められた。旧ジルニッツ軍をまとめ直すには、あの人が必要だったのだろう」
「いまは、ハインツ辺境伯の下で軍の再編を手伝っているそうですね。武装解除、部隊の整理、残った兵の扱い。あれは面倒な仕事ですよ」
「だが、誰かがやらねばならん」
リリィの声は少しだけ低くなった。
「すべてが終われば退くそうだ。公爵家の当主に戻ると聞いた」
「もっとも、その公爵家も名ばかりでしょう。領地も兵も、実権はほとんど奪われた」
「肩書きだけを残されて、余生を監視の下で過ごすことになる」
「……負けた側の名門など、そんなものですか」
「負けたのだからな」
リリィは短く言った。
「だが、生きている。生きているなら、まだ背負うものがあるだろう」
オスカーは返事をしなかった。
丘の下では、荷車が坂道をゆっくりと進んでいる。
荷台に積まれているのは、石材か、食糧か、それとも焼け跡から運び出された家財か。遠目にはわからなかった。
「王太子は、結局見つからずじまいでしたね」
オスカーがぽつりと言った。
「ああ」
リリィは短く答える。
「生きているのか、死んだのか、なにもわからない。ただ、東門陥落後の混乱で行方不明になった。そう記録されている」
「そして、側妃オリーヴィア様の姫君が保護されたと」
「側妃腹の姫だからな。どうしたって王位には届かん。だが王家の血筋であることに違いはない。いずれオーランジュの王族か、有力貴族に嫁がされるんだろう」
「国は滅びても、残った血は使われる」
「そういうことだ」
リリィの声は乾いていた。
コルネリアが命を賭けて得たはずの王子は姿を消した。
そして、彼女が見下していた側妃の娘が王家の血として残された。
皮肉なものである。
「結局、誰にもわからないままなんですね」
オスカーが言った。
「何がだ」
「勇者エルヴァンが、なぜ祖国を滅ぼす側に回ったのか」
リリィは答えず、ザッテルハイムの城壁を見下ろした。
かつて憧れた勇者。
自分が追い続けた背中。
その男は敵国の戦奴隷として現れ、王都を内側から破り、最後に王太子を抱いて消えた。
歴史には、きっとこう残る。
勇者エルヴァンは祖国を裏切った。
敵国オーランジュに与し、ジルニッツ王国を滅ぼした。
なお、理由は不明。
なぜそうなったのか。
それを知る者は、もういない。
「でも、副隊長は知っているんでしょう?」
オスカーが横目で見る。
リリィはしばらく黙っていた。
「知っている、とは言えない」
「じゃあ、察してはいる?」
「察していることと、口にしてよいことは違う」
「そうですか」
オスカーはそれ以上聞かない。
リリィも話さなかった。
あの部屋で聞いた言葉。王妃コルネリアの口から漏れた示唆。エルネストが赤子を抱き上げた手つき。
そして、あの一言。
子に罪はない。
それだけで十分だった。
けれど、それは語るべきではないだろう。
本人が語らずに去ったものを、自分が暴く権利などない。そう思っていた。
「魔法騎士隊も、もう以前の形には戻りませんね」
オスカーが言った。
「隊は解体。その後はオーランジュ本国から来る騎士隊の下に再編される。魔力持ちは貴重だからな。殺すより使う方がよいのだろう」
「わかってはいますが、気に入りませんね」
「私もだ」
リリィはあっさり言った。
「だから、私は残らない」
オスカーが振り向く。
「本当に辞めるんですね」
「ああ」
「副隊長が騎士を辞めるだなんて、未だに信じられません」
「勘違いするな。夢を諦めたわけではない」
リリィは静かに言った。
「追い切っただけだ」
オスカーは黙る。
「あの人のようになりたいと、ずっとそう思っていた。だが、そうはなれないと知った。憧れていた人が、どれほど遠いところにいたのかもだ」
それは敗北の言葉ではなく、諦めの言葉でもない。
ただ、自分の中にあった長い夢へ、ようやく区切りをつけたものだった。
「それに、親父殿があの有様だからな」
リリィは少しだけ肩を竦める。
「実家へ戻らねばならん」
「フォーゲル伯爵家は、存続するんですよね」
「ああ。良くも悪くも、政治的な影響力は大きくなかったからな。処分は軽い方だ。領地の一部は召し上げられたし、税だ賠償だと金も取られたが、家は残った」
「それを継ぐ、と」
「戦で怪我をした親父殿は引退。急ぎ、私が継がなければならなくなった」
オスカーは、少しだけ視線を落とした。
「そうですか」
その声には、かすかな落胆があった。
リリィは横目でそれを見た。
どれほど状況が悪くとも、冷静に補佐してくれた男である。
血まみれの歩廊でさえ、彼は自分を庇って前へ出た。その彼が、いまは妙に所在なさげな顔をしている。
リリィは、少しだけ口元を緩めた。
「家を継ぐには、婿が必要だ」
オスカーの肩が、わずかに跳ねた。
「……婿、ですか」
「ああ。両親が見合いをしろとうるさい。傷が癒えたばかりだというのに、まったく遠慮がないものだ」
「それは……まあ、伯爵家なら当然では」
「そういうものらしい」
リリィは、どこか気まずそうに王都へ視線を戻した。
「オスカー」
「はい」
「お前は、これからどうするんだ」
オスカーは少し考えた。
「私は……まだ決めていません。次男ですから、どのみち実家に居場所はないですし、このままオーランジュの騎士に指図されるのも気に入りませんしね」
「そうか」
リリィは一度だけ息を吸った。
「なら、オスカー」
「はい」
「お前も来ないか。フォーゲル領へ」
オスカーが固まった。
「はぁ?」
その声が、あまりに間の抜けたものだったので、リリィは少しだけ眉を寄せた。
「何だ、その返事は」
「いや、普通そうなりますよ。今の流れで、どうしてそうなるんですか」
「流れはあっただろう」
「ありましたか?」
「家を継ぐには婿が必要だと言った」
「言いましたね」
「お前は行くところがないと言った」
「そこまでは言いました」
「なら、一緒に来ればいい」
オスカーはしばらくリリィを見ていた。
「……成り行きですか?」
「そ、そんなことはない!」
リリィの声が上ずった。
「決してな。どこの馬の骨ともわからぬ男を婿に迎えるくらいなら……その……」
言葉が詰まる。
リリィは咳払いをした。
「お前なら知った仲だしな。気楽なんだ」
「それ、褒めてます?」
「褒めている」
「本当に?」
「しつこいぞ」
オスカーは小さく笑った。
それから、丘の下の王都を見た。傷だらけの城壁。補修の足場。行き交う荷車。まだ完全には戻らない生活。それでも、完全に死んではいない王都。
「いいですよ」
静かに言った。
今度はリリィが顔を向ける。
「いいのか」
「はい。騎士の生き方しか知りませんが、あなたの隣なら、まあ何とかなるでしょう」
リリィはなにか言い返そうとして、やめた。
その横顔が少し赤くなっているように見え、オスカーはそれを見ないふりをした。
「ただし、副隊長」
「もう副隊長ではない」
「では、リリィ様」
「それもやめろ」
「では、領主様」
「殴るぞ」
「リリィ」
オスカーは少しだけ笑った。
「領地経営では、無茶をする前に一度相談してください」
「私はそんなに無茶をしていたか」
「していました」
「……そうか」
「はい」
二人はしばらく黙って、ザッテルハイムを見下ろした。
戦は終わった。
奪われたものは戻らない。
死んだ者は帰らない。
勇者がなぜ祖国を滅ぼしたのか、その真実も歴史には残らないだろう。
それでも、王都には人が戻り始めていた。
荷車が動き、瓦礫が片づけられ、壊れた家の前に布が張られている。煙の消えた空の下で、生き残った者たちはもう次の日の支度を始めていた。
リリィは小さく息を吐いた。
勇者の背中はもう見えない。
追いかけるべき夢も終わった。
それでも、自分の歩く道だけは、ようやく見え始めていた。
― 戦禍の果て 完 ―
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
前作、前々作とコメディータッチの作品でしたので、今回は初めてダークファンタジーに挑戦してみました。
しかも戦記物ですよ、戦記物。
24万文字。分量的には新書2冊分、といったところでしょうか。
上、下巻ですね。
書き始めて困ったのは、「主人公がほとんど喋らない」こと。
そのため、常に周囲の人間を動かしてストーリーを進行しなければならず、途中で何度も頭を抱えました。
ですが、苦労した分、皆さんに楽しんでいただける作品になったのではないかと思っています。
王子を抱え、アンナとともに去っていったエルネスト――勇者エルヴァン。
彼はその後、どのような人生を歩んだのでしょうか。
アンナのその後は? マクシミリアンはどうなった?
頭の中にその後のストーリーはありますが、ここで語ることではないので秘密にしておきます。
なにはともあれ、無事に完結できたのは追いかけてくださった読者の皆様のおかげです。重ねてお礼申し上げます。
最後にお願いです。
もしも「おもしろかった!」「次回作も読みたい!」と思っていただけたなら、★の評価を入れてもらえると大変嬉しいです。
執筆の大きな励みになります。(本業は社畜サラリーマンなんです……)
では、また次の作品でお会いしましょう。
黒井ちくわ




