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第66話 無言の圧

 白銀宮の一室を静寂が支配していた。


 カッサリア軍は国境まで進軍しながら、寸前で引き返した。

 その事実だけでも十分に重い。しかも、原因が勇者の名だという。

 葬ったはずの男の名が、最後の希望だった援軍を退かせた。


 さらに、その直後。

 東門の内側に突然敵が現れ、その先頭に勇者本人がいた。


 ひとつでは足りぬとばかりに、容赦なく悪夢を重ねてくる現実。

 王は青ざめ、廷臣たちは顔を見合わせることしかできず、口を開いてもなにを言えばよいのかわからない。


 その中で、ディーターだけが次を見ていた。


「北と西から兵を割いて東へ回せ!」


 怒鳴るように言い放つ。


「東門を絶対に奪わせるな! 門楼を押さえられたら終わりだ!」


 その声に、伝令がはっと顔を上げる。


「魔法騎士隊を急行させろ! 全員だ! 東門内側へ直接ぶつけろ!」


「は、はいっ!」


 伝令が駆け出していく。

 フリードリヒがようやく我に返ったように顔を上げた。


「ディーター……もう、無理なのではないか? もはや援軍も来ぬのだぞ」


 威厳もなにもない。その声には王とは思えぬ弱気が滲んでいた。

 ディーターは一瞬だけフリードリヒを見た。


「だからといって、門を開け渡す理由にはなりません」


 声は冷たかった。


「東門さえ持ちこたえれば、まだ戦えます。まだ負けてはいないのです」


 それだけ言って踵を返す。


 廷臣たちはなお呆然としていた。

 カッサリアは来ない。それだけで、もう落城を宣言されたようなものだった。

 だが、軍人であるディーターにとって、それは戦をやめる理由にはならない。息がある限り、兵がいる限り、最後まで足掻くしかなかった。


 会議室の扉が勢いよく開けられ、そのまま閉まる。取り残された者たちは、ようやく自分たちの手が震えていることに気づいた。




 魔法騎士隊へ命令が届いたのは、その直後だった。


「東門へ急行! 敵突入隊を殲滅せよ!」


 駆け込んできた伝令の声に、場の空気が一気に張る。


「なお、その中に勇者と思しき者あり。注意されたし!」


 その一言に、リリィの目つきが変わった。


 すぐに立ち上がり、壁際に立てかけてあった剣を取る。

 周囲の部下たちもすでに動き始めていた。鎧の留め具が鳴り、外套が翻り、魔力の気配がぴんと張る。


「勇者、ですか」


 隊員の一人が息を呑むように言った。


「本当に……」


「確かめる時間はない」


 リリィが短く遮る。


「東門が落ちれば、城内へなだれ込まれる。まずは止めるのが先だ」


 その声には迷いがなかった。


 カッサリアの援軍がどうなったかなど、彼らは知らされていない。

 東門を守り、突入隊を押し返せばまだ持つ。まだ王都は耐えられる。そう信じるだけの情報しか与えられていなかったし、それで十分だった。


 リリィは剣の柄を握り直した。

 今度こそ、あの男を止める。


「行くぞ!」


 短い号令とともに、魔法騎士隊は飛び出した。

 石床を打つ足音が一斉に響く。城内はすでに混乱しており、逃げ惑う下働きや伝令たちを押しのけるように、彼らは東へ向かって走りだした。



 ◆◆◆◆



 その頃、オーランジュ軍の指揮所では、ハインツが地図の上に手を置いたまま動かなかった。


 外ではなお総攻撃が続いている。北も西も、まだ派手に暴れていた。しかし彼が待っていたのはそれではなかった。


「申し上げます!」


 物見の兵が駆け込んでくる。


「東門側の守備、やや薄くなりました! 城壁上の兵の動きが乱れ、内側への伝令も増えております!」


 マティアスがすぐに顔を上げた。


「東へ兵を引いたか」


「そのように見えます」


 ハインツが薄く息を吐く。


 突破したな。


 言葉には出さずとも、そう読んだ。

 東の守りが薄くなったのは、内側で異変が起きたからだ。

 北と西に主力を見せて兵を引っ張り、東の内側で騒ぎを起こした。ならば、突破は成功したと見ていい。


「東側の部隊を林から出せ」


 ハインツが言う。


「門が開き次第、突入させろ。一斉にだ」


「はっ」


 マティアスがすぐに命令を飛ばす。


 東門の外には、第二の主力が待機している。木々と起伏に姿を隠し、城壁上からは見えない位置に置いてあった。

 エルネスト頼みのあまりに綱渡りのような策である。実際、失敗かと疑い始めるには十分なほど待たされていた。


 しかし、それでもハインツは捨てなかった。


 あの男なら、やる。


 信じているのではない。あの執念が、そこまで届くと読んでいただけだ。


 ハインツが東の方角を見て言う。


「門楼さえ押さえれば終わる」


 マティアスは答えなかった。

 それは十分にわかっている。門楼を押さえるのが、一番難しいのだと。



 ◆◆◆◆



 東の正門内側へ続く歩廊は、狭く、血にまみれていた。


 ジルニッツ兵が怒号を上げながら押し寄せてくる。槍が突き出され、剣が振り下ろされる。逃げ場のない場所で数に押されるのは致命的だった。


 しかし、その先頭にはエルネストがいた。


 槍先を払い、踏み込み、喉を断つ。横から迫った兵は、肩から胸へ一文字に裂かれた。

 詠唱らしい間もなく放たれた魔弾が、奥の兵を壁へ叩きつける。さらに近づいた者は拳で顔面を砕かれ、そのまま歩廊の縁から下へ落ちていった。


 派手だった。

 だが無駄がない。


 怒りに任せて暴れているわけではなく、興奮してもいない。

 ただ前へ出るためだけに、目の前の障害を一つずつ消していた。

 それは戦いというより、処理だった。


 後ろに続くオーランジュの突入兵たちは、その背を追うだけで精一杯だった。

 討ち漏らしを刺し、回り込んでくる敵を止め、倒れた味方を踏み越える。

 彼らにも当然死傷は出ていた。狭い場所では人数差がそのまま圧になる。突き飛ばされ、押し潰され、足を取られた者から死んでいく。


「くそっ、まだか!」


 誰かが叫ぶ。

 門楼は見えている。しかし、見えていても辿り着けるとは限らない。


 本国から来た増援兵の一人は、エルネストの背に恐怖を覚えていた。

 もはや同じ人間の動きとは思えない。血と泥と汚水にまみれた背中は、死体の積み上がる中でも止まらない。敵兵が何人いようが、進む速さはほとんど変わらなかった。



 その時だった。


「勇者だ!」


 ジルニッツ兵の一人が、半ば悲鳴のように叫んだ。


「エルヴァンがいるぞ!」


 その名が、歩廊の空気を変えた。

 兵がたじろぎ、槍先がぶれ、数歩下がる。そこへ別の者がぶつかり、さらに列が乱れた。誰かが「まさか」と呟き、誰かが「違う」と怒鳴ったが、もはやその声に力はなかった。


 目の前の男の強さが、その名を否定させない。


 恐れが伝染していく。

 それは枯草へ火が回るより速かった。


 気づけば、エルネストの前の兵たちは左右へ割れ始めていた。

 それでも幾人かは歯を食いしばって斬りかかってきたが、すべてを一刀で断たれ、あるいは蹴り落とされ、決して前進を止めることはできなかった。


 門楼は近い。

 もう数十歩もない。


「押せ! いまのうちだ!」


 オーランジュ兵が怒鳴る。

 その直後、背後から別の足音が響いてきた。


 速く、重く、揃っている。


 振り返った兵の一人が顔色を変えた。


「騎士隊だ!」


 見れば、リリィを先頭にジルニッツの魔法騎士隊が徒歩で駆けてくる。外套の裾を翻し、剣を抜き、魔力の気配をまといながら一直線に距離を詰めてきた。


「いたぞ! やつを止めろ!」


 リリィの声が歩廊に響く。


「門楼へ行かせるな!」


 その声に迷いはなかった。

 門楼へ続く道は、すでにエルネストの圧で割れている。オーランジュ兵たちがそこへ流れ込もうとした時、エルネストは振り返って短く言った。


「行け」


 突入兵たちは一瞬だけ足を止めた。だがすぐに理解する。この男はここで壁になり、自分たちを先へ行かせるつもりなのだと。


「門を開けろ!」


 後ろの兵が叫び、オーランジュの突入兵たちは門楼へ向かって駆け出した。


 その背を見送ることなく、エルネストは魔法騎士隊の前へ出る。

 全身は汚水と返り血にまみれ、右顔の焼け跡には乾いた血が黒くこびりついていた。その姿はもはや人ではなく死神のようだった。


 リリィは剣を構え直す。


 あの男だ。

 間違いない。


 憧れた勇者。

 だが今は、王都を内側から壊す敵でしかなかった。


「今度こそ……」


 歯を食いしばる。


「止める!」


 魔法騎士隊が一斉に前へ出た。


 エルネストは無言のまま剣を持ち上げる。

 東門の門楼を目前にして、二つの刃はついに激突しようとしていた。

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