第65話 内と外
東の正門前は、朝からずっと騒乱が続いていた。
角笛の響き。投石機の着弾。城壁を打つ衝撃。兵の怒号。
石と石が砕ける乾いた音に混じって、ときおり魔法の炸裂する鈍い閃光まで見える。
ディーターは城壁上の歩廊からその様子を見下ろしていた。
北門と西門の方角からも、絶えず戦の音が響いてくる。
どこか一か所へ集中しているのではない。ザッテルハイム全体を揺さぶるように、オーランジュ軍は同時に圧をかけていた。
「弓を射よ! 止めるな!」
ディーターは怒鳴りながら城壁の外へ目を走らせた。
盾を並べた歩兵。その陰に身を寄せる弓兵。押し出される破城槌。
後方では次の投石機が石を抱え、工兵が土煙の中を走り回っていた。
攻める側が不利な攻城戦において、ここまで損耗を無視した攻めを続けるのは尋常ではない。
普通なら、どこかで息を入れるはずだ。
兵を下げたり、崩れた隊列を立て直したりする。
だが、オーランジュはそれをしようとしなかった。
打って、押して、また打つ。まるで時間に追い立てられているような攻めだった。
「閣下!」
副官が駆け寄ってくる。
「北門側、敵の投石がやや激しくなっております。守備兵の一部に動揺が」
「交代を入れろ。矢筒と石の補充を先に回せ。持ち場を離れさせるな」
「はっ」
副官が走り去る。
ディーターはなおも城外を見据えたまま、低く息を吐いた。
国境沿いにカッサリア軍が集結したという報は、つい先日届いたばかりである。
越境準備と思しき動きあり。兵数なお増加中。
あの一報で、王宮の空気は一変した。
援軍は来る。
この猛攻をしのぎ切れば、側面からカッサリアが突くはずだ。
その時、城内から打って出ればよい。
そういう算段だった。
ならば、オーランジュ側が焦るのも当然だ。
カッサリアが動き始めた以上、持久戦は不利になる。だからこそ、損害を度外視してでも今のうちに城を揺さぶろうとしているに違いない。
「意地でも守れ!」
ディーターは歩廊から下へ向けて怒鳴った。
「勝つ必要はない! 追い返せ! 時間は我らの味方だ!」
兵たちの返事が、怒号に混じって返ってくる。
その言葉に嘘はない。守るだけなら、まだ持つ。門は破られていないし、城壁も崩れてはいない。
籠城に徹するだけなら、カッサリアの援軍到着までは十分に耐えられるはずだった。
しかし、ディーターの胸の底には朝から棘のような違和感が引っかかっていた。
説明はできない。目の前の戦況だけを見れば、理屈は通る。
それでも、オーランジュのこの攻めはどこかおかしい。
激しいが、決定打がない。
門を破る気で押しているようでいて、どこか別のものを待っているようにも見える。
北門も西門も東門も同時に揺さぶっているのに、本気で一点を食い破ろうとする執拗さがない。
裏がある。
そう思った。
だが何が、と問われれば答えられない。
「閣下!」
今度は別の伝令が駆け上がってきた。王宮付きの文官である。鎧ではなく、汗に濡れた文官服のままだった。
「何だ」
「白銀宮より至急のお呼び出しです」
ディーターは顔をしかめた。
「今か」
「は」
「内容は」
「存じません」
文官は肩をすくめる余裕もなく、ただ緊張した顔で首を振った。
「至急、とのみ」
ディーターは一瞬だけ黙った。
前線指揮中の司令を呼び戻す。それがどれほど非常識なことであるかは、命じた側もわかっているはずだ。
ならば、ただ事ではない。
援軍か。
王宮内部か。
あるいは、もっと悪い何かか。
内容を伝令自身が知らされていないのも、かえって不気味だった。
「……副官!」
「はっ」
「ここを任せる。東門前の隊列を崩すな。魔法騎士隊は王宮寄りの予備位置で待機。必要があれば即応させろ」
「承知しました」
ディーターは最後にもう一度、城外を見た。
石が飛び、兵が倒れ、角笛が鳴っている。王都の朝はもう以前とはまるで違う。
その戦音を背に、彼は歩廊を離れた。
白銀宮の会議室へ入った時、ディーターは空気で察した。
何が起きたかは知らない。けれど、良い報せでないことだけは扉を開けた瞬間にわかった。
国王フリードリヒは卓の奥で蒼白になっていた。宰相ヨッヘムは唇を引き結び、廷臣たちも誰一人として口を開かない。
見れば、卓上には小さな紙片が一枚置かれていた。
「何事です」
ディーターが問う。
ヨッヘムが視線を上げた。
「国境警備より、伝書鳩の報が」
それだけで十分だった。
ディーターが卓へ近づく。そこに置かれた紙片には、短い文が数行だけ記されていた。
フリードリヒは、まるで意味が変わることを期待するように、何度も紙片を読んでいた。
「陛下」
ヨッヘムが促すが、フリードリヒは答えない。
代わりにヨッヘムが紙片を取り上げ、乾いた声で読み上げた。
「カッサリア軍、国境付近に集結するも越境せず。今朝方より後退を開始」
室内の誰もが、すぐには理解できなかった。
いや、理解はした。けれど意味を受け入れられなかった。
「なぜだ」
最初に口を開いたのはフリードリヒだった。その声は掠れていた。
「援軍は来るはずではなかったのか」
誰も答えない。
ディーターは紙片を取り上げた。文面は短い。軍事報告として必要最低限の情報しかないが、それで十分だった。
国境まで兵を進めた。
しかし越境せず反転した。
そこにある結論はひとつしかない。
「……臆したのでしょう」
低く言う。幾人かの廷臣がびくりと顔を上げた。
「臆した?」
ヨッヘムが確認するように問う。
ディーターは紙片を見たまま答えた。
「最初から来る気がなかったのなら、国境まで兵は進めません。援軍を出す意思はあったのでしょう。しかし最後の一歩で思い留まった。そのまま越境すれば、オーランジュと正面からぶつかることになる。その相手に――」
そこで言葉が切れる。
いや、意図して切ったのかもしれない。
次に出す言葉の重みを、そこにいる全員が知っていたからだ。
「勇者がいると知った」
凍りつく、とはこういうことを言うのだろう。
室内の空気から音が消えた。
またしても勇者である。
戦場で兵を崩したのも、その名。
そして今度は、最後に残った細い希望の糸まで、その名が断ち切った。
消したつもりだった。
葬ったつもりだった。
だが、その名はまだ生きている。本人が姿を現すまでもなく、その名だけで戦局を動かしていた。
フリードリヒの顔から血の気が引いていく。
「そんな……」
それ以上の言葉が出てこない。
ヨッヘムもまた沈黙する。普段なら何かしらの理由を探す男だが、今はその理屈すら喉へ上ってこない。
籠城は再び延命に戻った。
いや、もはや延命でさえないのかもしれない。
その瞬間、扉が乱暴に叩き開けられた。
「申し上げます!」
前線からそのまま走ってきたのだろう。
飛び込んできた伝令は、息を切らし、顔は汗と埃にまみれていた。
「東の正門の内側に敵が現れました!」
今度こそ、全員がその意味を理解できなかった。
「内側だと!?」
最初に吠えたのはディーターだった。
「どういうことだ。どこから入った!」
「ふ、不明です! 突然、城塞の内側から現れたとのこと! 現在、少数の突入隊が東の正門門楼を奪いに来ています! 守備兵が応戦中ですが、このままでは突破されそうです!」
ディーターの目が鋭く細まる。
王宮へ呼び出される直前まで、胸の底に引っかかっていた違和感が、そこで初めて輪郭を持った。
これだ。
正面の猛攻は、敵の目を引くためのもの。
本命は別にあった。
「敵は何人だ!」
「少数です! 三十か四十ほどかと!」
「その程度で門楼を奪えるものか!」
「ですが、その中に一人、化け物が!」
その言葉に、場の全員が何かを察した。
そして伝令の次の言葉がそれを言い当てる。
「勇者です! あの異常なまでの強さは、勇者エルヴァンに違いありません!」
外に勇者の名。
内にも勇者。
その事実に、今度こそジルニッツ王宮の面々は、放つべき言葉を失ったのだった。




