第64話 壁の裂け目
白銀宮の一室では、朝の打ち合わせが行われていた。
国王フリードリヒを上座に、宰相ヨッヘムと主だった廷臣たちが卓を囲み、ディーターは立ったまま地図を見下ろす。
話の内容は兵糧の配分、守備の交代、城内の不穏な噂への対処といった、どれも切実ではあるが、今この場で答えの出ないものばかりだった。
その時、遠くから角笛の音が届いた。
ひとつではない。
低く、重く、城壁の外から押し寄せてくるような音。
室内の空気が止まる。
ディーターだけが、瞬時にその意味を理解した。
「始まったか……」
短く呟いた彼は、それ以上言葉を継がずに踵を返した。
「お、おい、ディーター」
フリードリヒが思わず声を上げる。
「どこへ行く」
「現場へ戻ります」
振り返らずにディーターは答えた。
「会議は終わりです。必要なのは議論ではなく指揮だ」
そのまま扉へ向かう。副官が慌てて後を追い、廊下へ出たところでディーターは足を止めずに命令を飛ばし始めた。
「北門と西門の被害をすぐに報告させろ。投石の着弾位置もだ。弓兵が薄い箇所には予備を回せ。石と湯の補充を急がせろ。門前の槍兵は三交代にしろ。押し合いで潰される」
「はっ」
「魔法騎士隊を動かせ」
副官が一瞬だけ顔を上げた。
「ヘルムート隊もですか」
「当然だ」
ディーターの声は硬い。
「門前の攻防だけで終わるとは思えん。敵が壁に取りつくか、どこか一点へ圧を集めた時、すぐ差し向けられるよう待機させろ。城内で遊ばせるな」
「承知しました」
言うやいなや、副官が駆けていく。
ディーターはなお足を速めた。甲冑の擦れる音が廊下へ響く。
その背を、フリードリヒは扉のところまで出て見送った。
顔には相変わらず不安が見える。けれど、未だ絶望には至っていない。
カッサリアは来る。そう信じている限り、この総攻撃も耐えきれるはずだと頭のどこかで思っていた。
◆◆◆◆
城塞の東側、林に面した一角では別の戦が進んでいた。
城壁上の歩廊から見えぬよう、木々の陰へ身を伏せている四十名あまりの兵たち。
オーランジュ本国から送られてきた増援の中から、選りすぐられた者たちだった。
誰一人として声を上げずに、ただ指示された城壁の一角を見つめる。
外から見れば、ただの石壁にしか見えない。継ぎ目は見えず、蔦もなく、扉らしきものがある気配はまったくなかった。
遠くからは総攻撃の音が絶えず響いてくる。
角笛の響き。
投石機の着弾。
破城槌の衝撃。
城壁上から上がる怒号。
北門と西門の前では本隊が派手に暴れている。そこへ敵の目を引きつけている間に、こちらは静かに潜り込まなければならない。
理屈ではわかっている。わかってはいるが、ただ待たされる兵たちにとって、それで不安が消えるわけではなかった。
エルネストが南面の崖へ向かってから、もうかなり経っていた。
予定の刻限は、とうに過ぎている。
排水口から入り、城内を抜け、内側から通用口を開ける――と聞かされてはいたが、それと実際に石壁が動くかは別の話としか思えなかった。
兵の一人が、木の幹に背を預けたまま低く吐き捨てる。
「……本当に開くのかよ」
誰に向けた言葉でもなかった。
別の男が答える。
「知るか」
「知らんなら黙ってろ」
「うるさい。いまは待つしかないだろ」
返した男の声も苛立っていた。
本当に扉はあるのか。
場所を間違っているのではないか。
壁面を確かめたい気持ちはあるが、歩廊の上から見つかったら終わりだ。
皆それはわかっている。わかっているからこそ、動けない。
「死んだんじゃないか。それとも逃げたか」
誰かがぼそりと言った。
すぐには返事がない。
「…それな」
「排水口だの通用口だの、全部でたらめだったりしてな」
「所詮は戦奴隷の言うことだ」
そこまで口にしたところで、別の兵が舌打ちをした。
「静かにしろ」
叱責というほど強くもない、自分自身を押さえ込むような声だった。
彼らの多くは、エルネストという男を噂でしか知らなかった。
元勇者らしい。
名だけで敵を崩した。
顔の半分が焼けている。
戦奴隷のくせに、司令と対等に話すそうだ。
なにが本当なのかわからない。噂は噂でしかなく、実際のところはどうなのか。
しかし、この策は司令直々の命だと聞いている。ならば、自分たちがここにいる理由もはっきりしていた。
誰もが黙る。その時、不意に城壁の下部に黒い筋が走った。
最初はそれが何なのか誰もわからなかった。石の継ぎ目に影が差しただけのようにも見えたが、次にその筋がわずかに広がった。
空気が変わる。
「……開いたぞ」
ささやきにもならぬ声が漏れる。
一人の兵が地に伏せたまま、じりじりと城壁へ近づいていった。鎧の金具が鳴らぬよう、片手で押さえながら進む。
後ろの者たちは息を殺して、その背を見ていた。
壁の一角には、確かに隙間があった。
扉だ。
外から見れば、ただの石壁にしか見えない。しかし内側から押し開けられた今なら、その輪郭をはっきりと視認できた。
兵がその隙間へ目を寄せた。
思わず息を呑む。扉の向こうに一人の男が立っていた。
全身が濡れそぼり、黒ずんだ外套は汚水を吸って重く垂れ、血が染みていた。
右顔を覆う焼け跡も、泥と血でよりいっそうひどく見える。背後の石床にはいくつもの死体が転がり、まだ乾ききらぬ血が鈍く光っていた。
激戦だったことは説明されるまでもない。
だが当の本人だけは、まるで何事もなかったかのように平然としていた。
兵はその顔を知らなかった。本国から来た増援であり、これまで直接目にしたことはなかったからだ。
元勇者だという噂も、正直どこまで本当かわからない。
だが、その疑いは一瞬で消えた。
この狭い通路で、これだけの死体を積み上げてなお立っている男が、ただの戦奴隷であるはずがなかった。
男は兵を見た。
そして、たった一言だけ告げる。
「入れ」
それだけだった。
声は低く、掠れてもいない。
兵はようやく我に返り、すぐさま後方へ手で合図を送った。
林の中に身を潜めていた兵たちが一斉に動く。
ひとり、またひとりと木陰を離れ、城壁の裂け目のように見えるその隠し扉へ滑り込んでいく。
誰も余計なことは言わない。
言える空気でもなかった。
先頭の兵が扉の内へ足を踏み入れる。
鼻を突いたのは、鉄と血と汚水の臭いだった。足元では死体の腕が不自然な向きに折れ曲がり、その向こうでエルネストが道を空けるように一歩だけ退く。
兵たちはその横を抜け、暗い通路の奥へ吸い込まれていった。
こうしてザッテルハイムの城塞は、内側から裂け始めたのだった。




