表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

64/72

第64話 壁の裂け目

 白銀宮の一室では、朝の打ち合わせが行われていた。


 国王フリードリヒを上座に、宰相ヨッヘムと主だった廷臣たちが卓を囲み、ディーターは立ったまま地図を見下ろす。

 話の内容は兵糧の配分、守備の交代、城内の不穏な噂への対処といった、どれも切実ではあるが、今この場で答えの出ないものばかりだった。


 その時、遠くから角笛の音が届いた。


 ひとつではない。

 低く、重く、城壁の外から押し寄せてくるような音。


 室内の空気が止まる。

 ディーターだけが、瞬時にその意味を理解した。


「始まったか……」


 短く呟いた彼は、それ以上言葉を継がずに踵を返した。


「お、おい、ディーター」


 フリードリヒが思わず声を上げる。


「どこへ行く」


「現場へ戻ります」


 振り返らずにディーターは答えた。


「会議は終わりです。必要なのは議論ではなく指揮だ」


 そのまま扉へ向かう。副官が慌てて後を追い、廊下へ出たところでディーターは足を止めずに命令を飛ばし始めた。


「北門と西門の被害をすぐに報告させろ。投石の着弾位置もだ。弓兵が薄い箇所には予備を回せ。石と湯の補充を急がせろ。門前の槍兵は三交代にしろ。押し合いで潰される」


「はっ」


「魔法騎士隊を動かせ」


 副官が一瞬だけ顔を上げた。


「ヘルムート隊もですか」


「当然だ」


 ディーターの声は硬い。


「門前の攻防だけで終わるとは思えん。敵が壁に取りつくか、どこか一点へ圧を集めた時、すぐ差し向けられるよう待機させろ。城内で遊ばせるな」


「承知しました」


 言うやいなや、副官が駆けていく。

 ディーターはなお足を速めた。甲冑の擦れる音が廊下へ響く。

 その背を、フリードリヒは扉のところまで出て見送った。


 顔には相変わらず不安が見える。けれど、未だ絶望には至っていない。

 カッサリアは来る。そう信じている限り、この総攻撃も耐えきれるはずだと頭のどこかで思っていた。



 ◆◆◆◆



 城塞の東側、林に面した一角では別の戦が進んでいた。


 城壁上の歩廊から見えぬよう、木々の陰へ身を伏せている四十名あまりの兵たち。

 オーランジュ本国から送られてきた増援の中から、選りすぐられた者たちだった。


 誰一人として声を上げずに、ただ指示された城壁の一角を見つめる。


 外から見れば、ただの石壁にしか見えない。継ぎ目は見えず、蔦もなく、扉らしきものがある気配はまったくなかった。


 遠くからは総攻撃の音が絶えず響いてくる。


 角笛の響き。

 投石機の着弾。

 破城槌の衝撃。

 城壁上から上がる怒号。


 北門と西門の前では本隊が派手に暴れている。そこへ敵の目を引きつけている間に、こちらは静かに潜り込まなければならない。

 理屈ではわかっている。わかってはいるが、ただ待たされる兵たちにとって、それで不安が消えるわけではなかった。


 エルネストが南面の崖へ向かってから、もうかなり経っていた。


 予定の刻限は、とうに過ぎている。

 排水口から入り、城内を抜け、内側から通用口を開ける――と聞かされてはいたが、それと実際に石壁が動くかは別の話としか思えなかった。


 兵の一人が、木の幹に背を預けたまま低く吐き捨てる。


「……本当に開くのかよ」


 誰に向けた言葉でもなかった。

 別の男が答える。


「知るか」


「知らんなら黙ってろ」


「うるさい。いまは待つしかないだろ」


 返した男の声も苛立っていた。


 本当に扉はあるのか。

 場所を間違っているのではないか。


 壁面を確かめたい気持ちはあるが、歩廊の上から見つかったら終わりだ。

 皆それはわかっている。わかっているからこそ、動けない。


「死んだんじゃないか。それとも逃げたか」


 誰かがぼそりと言った。

 すぐには返事がない。


「…それな」


「排水口だの通用口だの、全部でたらめだったりしてな」


「所詮は戦奴隷の言うことだ」


 そこまで口にしたところで、別の兵が舌打ちをした。


「静かにしろ」


 叱責というほど強くもない、自分自身を押さえ込むような声だった。


 彼らの多くは、エルネストという男を噂でしか知らなかった。

 元勇者らしい。

 名だけで敵を崩した。

 顔の半分が焼けている。

 戦奴隷のくせに、司令と対等に話すそうだ。


 なにが本当なのかわからない。噂は噂でしかなく、実際のところはどうなのか。

 しかし、この策は司令直々の命だと聞いている。ならば、自分たちがここにいる理由もはっきりしていた。



 

 誰もが黙る。その時、不意に城壁の下部に黒い筋が走った。

 最初はそれが何なのか誰もわからなかった。石の継ぎ目に影が差しただけのようにも見えたが、次にその筋がわずかに広がった。


 空気が変わる。


「……開いたぞ」


 ささやきにもならぬ声が漏れる。

 一人の兵が地に伏せたまま、じりじりと城壁へ近づいていった。鎧の金具が鳴らぬよう、片手で押さえながら進む。

 後ろの者たちは息を殺して、その背を見ていた。


 壁の一角には、確かに隙間があった。


 扉だ。

 外から見れば、ただの石壁にしか見えない。しかし内側から押し開けられた今なら、その輪郭をはっきりと視認できた。


 兵がその隙間へ目を寄せた。

 思わず息を呑む。扉の向こうに一人の男が立っていた。


 全身が濡れそぼり、黒ずんだ外套は汚水を吸って重く垂れ、血が染みていた。

 右顔を覆う焼け跡も、泥と血でよりいっそうひどく見える。背後の石床にはいくつもの死体が転がり、まだ乾ききらぬ血が鈍く光っていた。


 激戦だったことは説明されるまでもない。

 だが当の本人だけは、まるで何事もなかったかのように平然としていた。


 兵はその顔を知らなかった。本国から来た増援であり、これまで直接目にしたことはなかったからだ。

 元勇者だという噂も、正直どこまで本当かわからない。


 だが、その疑いは一瞬で消えた。

 この狭い通路で、これだけの死体を積み上げてなお立っている男が、ただの戦奴隷であるはずがなかった。


 男は兵を見た。

 そして、たった一言だけ告げる。


「入れ」


 それだけだった。

 声は低く、掠れてもいない。


 兵はようやく我に返り、すぐさま後方へ手で合図を送った。


 林の中に身を潜めていた兵たちが一斉に動く。

 ひとり、またひとりと木陰を離れ、城壁の裂け目のように見えるその隠し扉へ滑り込んでいく。


 誰も余計なことは言わない。

 言える空気でもなかった。


 先頭の兵が扉の内へ足を踏み入れる。

 鼻を突いたのは、鉄と血と汚水の臭いだった。足元では死体の腕が不自然な向きに折れ曲がり、その向こうでエルネストが道を空けるように一歩だけ退く。


 兵たちはその横を抜け、暗い通路の奥へ吸い込まれていった。


 こうしてザッテルハイムの城塞は、内側から裂け始めたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ