第63話 角笛の鳴る朝
コルネリアの私室には、王子のために誂えられた特別製の揺りかごが置かれていた。
白木を磨き上げた枠には繊細な彫刻が施され、縁には細い金の飾りが控えめに走っている。
内側にはやわらかな布が幾重にも敷かれ、揺れを抑えるための工夫まで凝らされていた。
まさしく王家の世継ぎにふさわしい品である。しかしそれは宝飾を誇るためではなく、あくまで赤子を穏やかに眠らせるためのものだった。
王子の寝所は、乳母の管理下にあるのが普通である。とりわけ王家の男子ともなれば、なおさらだ。
だがその揺りかごは、コルネリアの寝台の傍らに置かれていた。
生後一か月半。
授乳の間隔は整い始め、昼と夜の区別もわずかながらついてきた。
目はもうしっかりと開き、手足を絶えず動かし、機嫌がよければ「あー」「うー」と声を漏らす。
顔を覗き込んでやれば、まだ曖昧ながら笑うこともあった。
今日もコルネリアは、その小さな体を胸に抱いていた。
薄い産毛。やわらかな頬。温かい重み。腕の中の赤子は、澄んだ瞳で疑いもなく見上げてくる。
コルネリアは、そうした視線をこれまで受けたことがなかった。
大抵の者は視線を逸らすか、必要以上にへりくだり、顔に愛想笑いを貼りつけ、怯えたように顔色をうかがってくる。
稀に視線を向けてくる者がいたとしても、それは憎しみか、反感か、打算のいずれかだった。
だが、腕の中の赤子は違う。
純粋に自分を必要とし、疑いもなく寄りかかってくる。こちらが手を差し出せば、その小さな手は当たり前のように指を握り返してきた。
出産直後には胸の奥の小さな異物でしかなかった、言いようのない感情。
今では持て余すほどに膨らんだそれを、コルネリアは、大きな戸惑いと若干の安らぎとともに、己の中で受け止めようとしていた。
王子の世話は、乳母に任せるのが筋である。だがコルネリアは、なにかと理由をつけては己で子を抱こうとする。
抱き方が気に入らぬ。
布の巻き方が甘い。
泣き方が落ち着かぬ。
部屋の空気が乾いている。
今は寝かせるな。
口実はいくらでもあった。
しかし実のところ、なぜそうまでして我が子を手元に置きたがるのか、コルネリア自身にもよくわかっていなかった。
ときには人払いまでして、自ら乳を含ませることさえある。
それが母の情なのか。それとも、己の所有物に対する執着なのか。それがコルネリアにも理解できない。
ただ、そうしている時だけは、胸の奥のざらつきが静まる気がした。
「王妃殿下、そろそろ乳母を――」
控えていた侍女が、遠慮がちに口を開く。
コルネリアは視線も向けぬまま答えた。
「まだよい」
それだけで、侍女は引き下がった。
自分でも、らしくないとは思う。
子など、勝利の証でしかなかった。王子を産んだという事実こそが重要であり、その中身に心を割く必要などないはずだった。
なのに、いまは揺りかごへ戻す間さえ惜しいと思ってしまう。
マクシミリアンがまた「あう」と声を漏らす。
コルネリアはほんのわずかに口元を緩めた。
その時だった。
遠く、城外の方角で、低く角笛が鳴った。
ひとつではない。
間を置いて、また鳴る。
長く、重く、城壁の外から押し寄せてくるような音。
コルネリアの指先が止まり、侍女たちの顔色が変わった。
「……始まった」
小さな呟き。
それが誰だったのか、部屋の中の誰にもわからなかった。
◆◆◆◆
北門前は、すでに地獄だった。
角笛が鳴り、投石機が唸りを上げ、巨大な石が城壁へ叩きつけられる。
鈍い衝撃音が響き、そのたびに白い石壁から欠片が散った。
矢は雨のように飛び、門の前へ寄せられた盾の列へ次々と突き立つ。破城槌を守る覆いの上には石と煮え油が降り注ぎ、悲鳴と怒号が泥と血の匂いに混じった。
「おいおいおいおい、これ本当にやるのかよ!」
盾の陰へ無理やり身を押し込みながら、エティが半ば悲鳴のような声を上げる。
隣でバートが顔をしかめた。
「今さらだろうが!」
「いや、わかってたけどさ! わかってたけど、思ったより酷ぇんだよ!」
「攻城戦が楽なわけあるか!」
その頭上を、また矢が唸って通り過ぎる。誰かが後ろで短く呻き、別の誰かが怒鳴った。
「前へ出ろ! 破城槌を止めるな!」
「止まってねぇよ、止められてんだよ!」
エティが喚く。
だがその文句も、次の瞬間には石壁の上から落ちてきた石塊にかき消された。
盾が大きく揺れ、押し合っていた兵たちが一斉によろめく。バートが舌打ちしながら体勢を立て直した。
「くそっ……!」
「なぁバート、これ絶対死ぬやつだろ!」
「うるせぇ! 死ぬ時は黙って死ね!」
「そんな器用な真似できるか!」
怒鳴り合っているうちにも前へ押される。後では督戦兵が怒鳴っていた。
戦奴隷にとって、攻城戦の最前列はいつだって使い潰しの場所でしかない。
破城槌の覆いの陰で、兵たちが重い梁を押し出した。門にぶつかるたびに、鈍い衝撃が地面を伝って足へ返ってくる。
しかし、そのたびに城壁上からの攻撃も激しくなる。矢だけではなく、石も、湯も、油も、手に入るものはなんでも落としてくる。
「おい、あれ湯か!?」
「湯ならまだマシだ、黙ってろ!」
「なにがマシなんだよ!」
湯に焼かれた男の悲鳴が、すぐ近くで上がった。エティの顔が引きつる。
「なぁ、これマジで門を割る気なのか? 絶対死ぬって!」
「知らねぇよ!」
バートは吐き捨てた。
「考えてねぇで、突っ込め!」
「それが嫌なんだよ!」
また角笛が鳴る。
北門だけではない。西側からも、さらに別の門の方角からも、ほぼ同時に戦の音が上がっていた。
見れば、ザッテルハイムの外周全体が一気に揺さぶられている。
オーランジュ軍は、本気で王都を落としにきていた。
バートが盾の隙間から城壁を見上げる。白い石壁の上にはジルニッツ兵がびっしりと並び、槍を構え、矢を番え、怒鳴り声を張り上げていた。
あの上から見れば、自分たちはただの的だろう。
「ちくしょう……」
口の中で悪態が漏れる。
それでも足は止まらない。止まれば、前からも後ろからも殺される。
エティが盾の端へしがみつきながら言った。
「なぁ、終わったら絶対、今日も生き残ったって自慢してやる!」
「終わったらな!」
「ちくしょう! さっさと終われよ!」
その叫びとほぼ同時に、門へ破城槌がもう一度叩きつけられた。
こうして王都ザッテルハイムの攻防は、ついに始まったのだった。




