第62話 策
天幕の中は静まり返っていた。
カッサリア軍が国境沿いに集結した報が、どれほど重いものかは誰もが理解している。
このまま正攻法で城塞を攻めても、王都を落とす前に側面を突かれてしまう。だからこそ、エルネスト自らが指揮所へ現れた意味は重かった。
そのエルネストが、地図の南面を見下ろしたまま続けた。
「尖塔の真下だ。岩の裂け目に隠れている」
指先が示しているのは、ザッテルハイムの南側。白銀宮の高い尖塔が記された位置のさらに下、海へ落ちる断崖だった。
ハインツは眉をひそめる。
「入れるのか」
「大軍は無理だ」
「では、どう使う」
「俺が入る」
天幕内の空気がわずかに変わった。
マティアスが地図を覗き込む。
「そこから城内へ出られるのか」
「あぁ」
「先は」
「下層の保守通路」
エルネストの指が、今度は城塞の東側へ動いた。
「ここに通用口がある」
「東門とは別だな」
「非常用だ。外からは見えず、内側からしか開かない」
ハインツは地図から目を離さずに低く問う。
「なぜ知っている」
「昔、防衛図を見た」
短い答えだった。
マティアスが小さく息を吐く。
「ジルニッツの守護者……か」
それは皮肉でも感嘆でもない、純粋に事実を言った言葉だった。
けれどエルネストは、それにも反応しなかった。
知っていたなら、なぜもっと早く言わぬ。
ハインツは一瞬そう思ったが、すぐにその考えを引き下げた。
兵が足りぬうちに通用口を開けても、そこから送り込める手勢には限りがある。
仮に門を開けられたとしても、外から押し込む兵力がなければ、すぐに押し返されるだけだ。
増援が届き、北門と西門へ圧をかけられる今だからこそ、この策は意味を持つ。それゆえにエルネストも、このタイミングで口を開いたのだろう。
そう判断して、ハインツが問う。
「潮は」
「満ちれば通れない」
「次に通れる刻は」
「四時間後」
エルネストが即答する。口調に迷いはなかった。
「警備は」
「薄いはずだ。臭く、狭く、危険だ。普通の兵は近づかない」
「鉄格子は」
「ある」
「通れるのか」
「古い。壊せる」
迷いなく言った。
ハインツはしばらく黙った。
危うい策である。ほとんどがエルネスト一人の肩にかかっており、排水口が塞がれていれば終わり、保守通路に兵がいれば遅れる。
通用口まで辿り着けなければ、外で待つ突入隊はただの的になるだけだ。
だが、カッサリア軍が越境してくる以上、正攻法で壁を削っている時間などない。
「通用口を開けたあとはどうする」
ハインツが問う。
「兵を入れろ」
エルネストは答える。
「そこから大門へ向かう」
マティアスがすぐに続けた。
「選抜した突入隊が必要です。多すぎれば見つかり、少なすぎれば門楼を奪えません」
「何人だ」
「三十。多くても四十でしょう」
「選べ。腕が立ち、足が速く、暗がりで迷わぬ者だ」
「しかし、門楼には守備兵が詰めております」
マティアスの声は硬かった。
「なにより大門の心臓部です。閂、巻き上げ機、落とし格子。そこを少数で制圧するのは――」
「俺が斬る」
エルネストが言う。
たった一言、それだけだった。
けれど、天幕の中の者たちは、その言葉だけで十分理解する。
突入隊だけで門楼を奪うのは難しい。しかし先頭にこの男がいるなら話は違う。
突入隊の役目はエルネストを助けることではなく、彼が討ち漏らした兵を狩り、回り込む敵を止め、閂と巻き上げ機に取りつく時間を稼ぐことである。
ハインツは地図の北門と西門へ視線を走らせた。そして言う。
「本隊は予定通り、各門へ攻勢をかける」
「陽動ですな」
「敵の目を正面へ向けさせる。派手にやれ。投石機も破城槌も使う。門を破る気で攻めろ」
「実際には、東側の通用口から突入隊を入れる、と」
「そうだ」
マティアスは一度だけエルネストを見た。
「閣下。一つ懸念があります」
「言え」
「この男が城内へ入ったあと、予定通り通用口へ向かう保証がありません」
エルネストは黙ったまま。
マティアスは続ける。
「この男の目的は我々の勝利ではなく、王妃コルネリアでしょう」
天幕の中が静まり返る。
誰も否定しない。
エルネストも、なにも言わない。
ハインツはしばらくエルネストを見ていた。それから低く言う。
「門を開けるまではやる」
「なぜ、そう言い切れます」
「門が開かねば、王妃のもとへも届かんからだ」
その一言で、マティアスは口を閉じた。
理屈は通っている。
城内へ入り込むだけなら、エルネスト一人でも可能だろう。だが王宮の奥へ辿り着くには、城内全体が混乱している必要がある。
大門が開き、本隊がなだれ込み、守備が崩れる。その混乱がなければ、いかにエルネストでも数に潰されるだけだ。
少なくとも大門を開けるまでは、エルネストの目的とオーランジュの勝利は同じ方向を向いている。
ハインツはエルネストを見て言った。
「貴様を信じるわけではない」
エルネストは答えない。
「だが、貴様の執念を利用する」
その言葉にも、反応はなかった。
ハインツは地図から顔を上げる。
「決行は四時間後、干潮に合わせる。北門と西門への攻撃も同時だ」
マティアスが頷く。
「突入隊を選抜します」
「東側の通用口付近に待機させろ。見つかればすべて終わる。合図があるまで動かすな」
「はっ」
「エルネスト」
呼ばれて、エルネストがようやくハインツを見た。
「失敗すれば死ぬぞ」
「あぁ」
「戻れるなら戻れ」
返事はない。
ハインツは目を細めた。
「戻る気はないか」
「ない」
変わらぬ声だった。
ハインツは鼻で息を吐く。
「ならば、行け」
その言葉とともに、エルネストは踵を返した。
天幕の外へ出ると、夜の空気が肌にまとわりついた。
遠くではザッテルハイムの城壁が黒く沈み、ところどころに見張り火が揺れている。
南の方角からは、かすかに海の匂いがした。
そのまま崖へ向かうはずだった。しかしエルネストの足は別の方へ向いた。
後方の炊事場には、まだわずかな火が残っていた。
今夜、大きな動きがあることは、下働きの者たちにも伝わっている。水を汲む者、布をまとめる者、鍋を片づける者たちの顔には、落ち着かないものがあった。
その端に、アンナがいた。
桶の水を替えていた彼女は、暗がりに立つエルネストに気づいて手を止める。
いつもと同じ外套。
いつもと同じ無表情。
けれど、今夜だけは違うと、なぜかわかった。
「……行くんですね」
「あぁ」
短い返事だった。
なにをしに、どこへ行くのか。
アンナは聞かない。
聞かなくてもわかっていた。この人は、ようやく終着点へたどり着くのだと。
「戻ってくるつもりは、ありますか」
エルネストは答えない。
答えないまま、ただアンナを見た。
それだけで十分だった。
「そうですか」
アンナが小さく息を吐く。
それから、いつものように静かに言った。
「では、待っています」
エルネストの目が、わずかに動いた。
「約束は、しなくていいです」
アンナは続ける。
「でも、私は待っています」
沈黙が落ちる。
遠くで角笛が鳴った。
北門と西門へ向かう部隊が、すでに動き始めているのだろう。
エルネストは無言のまま踵を返した。
その背へ、アンナは声をかけた。
「行ってらっしゃい、エルネストさん」
エルネストは足を止めた。
振り返らない。
すぐには返事もしない。
ただ、ほんの一瞬だけ立ち止まり、それから低く言った。
「あぁ」
それだけだった。
エルネストは炊事場を離れた。
向かう先は、王都の南。
白銀宮の尖塔の真下。
海へ落ちる崖。
かつて、エルヴァン・レヒナーが死んだとされた場所だった。
そこへ今度は落ちるのではなく、自らの足で降りていった。




