第61話 朗報と凶報
オーランジュ本国からの増援が到着したのは、ザッテルハイムを半包囲して一か月が過ぎた頃だった。
北の街道に軍旗が現れた。
最初は砂埃の向こうに揺れる点でしかなかったものが、やがて列となり、槍となり、荷車となって続いてくる。
歩兵、弓兵、工兵、補給を担う荷駄隊。さらに攻城具の部材を積んだ重い車列が、軋む音を立てて南へ進んでいた。
破城槌の梁。
投石機の腕木。
攻城塔の骨組み。
それらが次々と運び込まれてくる様は、オーランジュ本国がこの戦をどのように見ているのかを物語っていた。
二百年にわたる因縁を、この機に終わらせる。
これは、ただ国境を押し広げるための戦ではなく、ジルニッツという国そのものを屈服させる戦だった。
しかし、増援が来たからといって、すぐに総攻撃が始まるわけではない。
ザッテルハイムは巨大だ。
白い石壁に囲まれた王都は、見た目の優雅さとは裏腹に、城塞としての機能を十分に備えている。
北門も西門も十分に厚く、東側も守りは堅い。南面は海へ落ちる断崖であり、そこから攻めようと考える者はまずいなかった。
兵が増えたところで、無秩序に押し寄せても死ぬだけだ。
まずは包囲を完成させる必要がある。
半包囲だった陣は広げられ、主要街道と橋、渡河点には新たな部隊が置かれた。
工兵たちは土塁を積み、柵を立て、攻城兵器を据えるために地面を固める。伝令や密使の出入りを断つため、外周の哨戒も増やされた。
こうして王都は、ようやく本当の意味で封じ込められたのだった。
そこからさらに半月が過ぎた。
城外では攻撃の準備が進んでいき、それを見下ろす城内の兵たちの表情は、日に日に硬くなっていく。
白銀宮の会議室には、重い空気が沈んでいた。
国王フリードリヒが卓の奥で落ち着かぬ顔をする。傍らには宰相ヨッヘムと廷臣たちも揃っていたが、誰の顔にも余裕はなかった。
ディーターは地図の前に立っていた。
城外のオーランジュ軍は攻撃準備を整えつつある。投石機が姿を現し、破城槌を隠すための覆いも組まれ始めた。
もはや総攻撃は遠くない。
「あと、どれほど持つ」
フリードリヒが問う。
その問いは、防衛の話なのか、兵糧の話なのか、民心の話なのか。当人にも判然としていなかった。
ディーターが短く答える。
「攻撃の規模次第です」
「それでは答えになっておらぬ」
「正確な日数を申し上げても意味はありません。門が破られればその日で終わります。破られなければ、兵糧と士気が尽きるまで続きます」
会議室の空気がさらに沈む。
ヨッヘムが静かに言った。
「カッサリアが来るまで、持ちこたえる。それ以外に道はありません」
「ならば、そのカッサリアはいつ来るのだ」
フリードリヒの声には苛立ちが混じっていた。
誰もすぐには答えず口をつぐむ。その時、扉の外が騒がしくなった。
「失礼いたします」
入ってきたのは伝令ではなく、王宮内の文官だった。手には小さく畳まれた紙片を持っていた。
「東の国境警備より、伝書鳩の報せが届きました」
その一言で、会議室の全員が顔を上げた。
文官は紙片をヨッヘムへ渡す。
ヨッヘムがそれに目を走らせた瞬間、表情が変わった。
「宰相」
フリードリヒが身を乗り出す。
「何とある」
ヨッヘムは一度、ディーターへ視線をやり、それから声を整えて読み上げた。
「カッサリア軍、国境沿いに集結。越境準備と思しき動きあり。兵数、なお増加中」
一瞬、誰も声を出せなかった。
しかし、沈黙はすぐに破られた。
「来た……」
誰かが呟く。
「援軍が来るのか」
「やはりカッサリアは動いた」
廷臣たちの顔に、久しく見えなかった明るさが差した。フリードリヒも椅子から立ち上がって身を乗り出していた。
「来るのだな。カッサリアは、本当に来るのだな」
その声は、一国の王ではなく救いを求める者のそれだった。
それへ、ヨッヘムが慎重に答える。
「少なくとも、軍を国境まで進めているのは確かなようです」
「ならば来る」
法務の廷臣が言った。
「文には越境準備とある。ならば、もう間もなく――」
「まだ越えたわけではありません」
浮き立ちかけた空気をディーターの声が押さえる。
会議室の視線が彼へ向く。ディーターは紙片を受け取り、短い文面をもう一度読んだ。
「ですが、軍を国境まで出した以上、動く意思はあるのでしょう」
その言葉に、廷臣たちの顔がふたたび緩む。
「では、持ちこたえればよいのだな」
フリードリヒが言った。
「オーランジュの総攻撃を耐えれば、カッサリアが側面を突く。こちらも城内から打って出れば――」
「挟撃できます」
ディーターは答えた。
ただし、その声音は決して楽観的ではなかった。
「ですが、そこまで持たさねばなりません。敵はそれを待ってはくれない。もはや総攻撃は近いでしょう」
ヨッヘムが頷く。
「それでも、耐える理由はできましたな」
「はい」
ディーターは紙片を卓へ置いた。
「援軍が来るなら、籠城は延命ではなく勝ち筋になる。あとは、どこまで耐えられるかです」
その一言で、会議室の空気が変わった。
絶望が消えたわけではない。
城外の敵が消えたわけでもない。
だが、暗い穴の底に、かすかな光が差したようだった。
フリードリヒが大きく息を吐く。
「持ちこたえよ」
誰に命じたのかもわからぬ声だった。
「カッサリアが来るまで、なんとしても持ちこたえるのだ」
その言葉に廷臣たちは頷くが、ディーターだけはしばらく紙片を見下ろしていた。
動きはしたが、まだ国境を越えてはいない。
その事実は、彼の胸の底に重く沈んだままだった。
◆◆◆◆
同じ頃。オーランジュ軍の指揮所。
ハインツは攻城準備の最終配置を確認していた。
卓上の地図には、北門と西門、東側の街道、各陣の位置が細かく記されている。その傍らにマティアスが控えていた。
「投石機は明朝には撃てます」
「破城槌は」
「西門側は準備済みです。北門側は覆いの補強がまだ少し」
「急がせろ」
「はっ」
そこへ斥候が入ってきた。
「申し上げます」
泥のついた膝をつき、息を整える。
「カッサリア国境方面より報告。カッサリア軍が国境沿いに集結しております。越境準備と思しき動きあり。兵数はなお増加中とのこと」
マティアスの顔が強張った。
「動きましたな」
ハインツはすぐには答えず、指先で地図の端を押さえた。
そこに描かれているのはザッテルハイムであって、カッサリア国境ではない。しかし、カッサリア軍の動きが包囲線の腹を刺そうとしていた。
「毒は効かなかったか」
低く言う。
「あるいは、効いてなお踏み込むつもりか」
マティアスが問う。
「どう見ますか」
「わからん」
ハインツは正直に答えた。
「だが、軍を国境まで出したのは事実だ。越える気がなければ、そこまではせん」
「包囲を維持したまま、カッサリアを迎え撃つのは危険です。最悪、分断されてしまうでしょう」
「ああ」
「ジルニッツも城内から打って出るはず。こちらは挟まれます」
「うむ」
ハインツの返答は短い。
焦りがないわけではない。だが、それを顔に出しても兵が増えるわけではなかった。
マティアスは地図を見下ろし続けた。
「正攻法では時間がかかります」
「わかっている」
「では、攻城準備を切り上げますか」
「いや」
ハインツは即座に否定した。
「準備は捨てん。北門と西門へ圧をかけるには使える」
「では」
「門を正面から破るのは時間がかかりすぎる。だが、敵の目を向けさせるには十分だ」
マティアスはその意味を考え、眉を寄せた。
「別の策があれば、という話ですな」
「そうだ」
ハインツは地図を睨んだ。
正攻法では間に合わないが、奇策を打つにも突破口がない。
強固な城壁。閉ざされた門。南は海へ落ちる断崖。
さすがに難攻不落を謳うだけのことはある。敵から見てもザッテルハイムはよくできた檻だった。
その時、天幕の外で兵の声がした。
「閣下」
「何だ」
「戦奴隷のエルネストが、面会を求めております」
マティアスが目を細めた。
「エルネストが?」
ハインツも顔を上げる。
あの男が自ら来る。それには違和感しかなかった。
呼べば来る。命じれば戦う。
けれど、自ら話を持って指揮所を訪れるような男ではない。
「通せ」
短く命じる。
やがて、エルネストが天幕へ入ってきた。
黒ずんだ外套。焼けた右顔。いつもの無表情。
周囲の視線など気にした様子もなく、彼はそのまま地図の前に立った。
一礼もないが、ハインツは咎めず訊く。
「何の用だ」
エルネストは地図を見下ろし、唐突にザッテルハイムの南面を指さして言った。
「ここに、古い下水口がある」
マティアスが聞き返す。
「下水口?」
エルネストは、白銀宮の尖塔が記された位置のさらに下、海へ落ちる断崖のあたりを指したまま静かに言った。
「城内の汚水を海へ流す古い水路だ」
ハインツの眉がわずかに動く。
「それがなんだ」
エルネストは指を下ろさなかった。
「聞く気はあるか」
天幕の中が、わずかに静まった。
マティアスがエルネストを見る。
ハインツもまた、地図から目を離さなかった。
この男が、自ら口を開こうとしている。
それだけで、聞く価値はあった。
「……言え」
ハインツは低く答えた。
「聞いてやる」
その言葉に、エルネストはようやく指を下ろした。
指が示したのは門ではなく、城壁でもない。海へ落ちる、白銀宮の真下の崖だった。
そこからザッテルハイムを落とす話を、この男はしようとしていた。




