第60話 毒を注ぐ
王子誕生の報は、その日の昼前には城内へ布告された。
王妃コルネリアが世継ぎを産んだ。
その御名は、マクシミリアン・フリードリヒ・フォン・ジルニッツ。
白銀宮の前庭で布告役が声を張り、同じ文面が城門の内側、兵舎、市場、神殿前でも読み上げられた。
戦時である。鐘は短く鳴らされ、祝宴はない。舞踏もなければ、酒も肉も振る舞われない。
城門は閉じたまま。
配給の列は、相変わらず長い。
城壁の外には、オーランジュ軍。
それでもなお王子誕生の報は、城内へ久しぶりの明るさを運んだ。
「王子様がお生まれになったそうだ」
「王家は続くんだな」
「なら、まだ終わりじゃない」
そんな声が、あちこちで囁かれる。
笑顔と呼ぶには弱いものの、ここしばらく城内を覆っていた重苦しい沈黙に比べれば、それは確かに明るいものだった。
勇者エルヴァンの噂は消えていない。
王宮への不信もぬぐえていない。
食料の不安も、城外の敵も、なにひとつ片づいてはいない。
それでも、新しい王子が生まれた。
王家の血筋は続く。
王国はまだ終わっていない。
そう信じさせるには、それだけで十分だった。
翌日の夜。
ザッテルハイムの南東にある城壁の影の薄い一角で、一人の男が闇に紛れて城外へ出た。
カッサリアの使者、アルマンである。
入る時と同様に、出る時も正面からは出られない。城門は固く閉ざされ、その外にはオーランジュ軍の物見と哨戒が巡っている。
完全包囲ではないが、要所には常に目があった。
アルマンは案内役に導かれ、水路に近い低地を抜けた。泥に足を取られ、衣の裾を濡らし、何度も身を伏せる。
腰帯の内側、肌着との間に、フリードリヒからカッサリア王へ宛てた返書が隠されていた。
城壁から十分に離れたところで案内役と別れ、約束していた合流地点へ向かう。
街道を外れた小さな林。月明かりは薄く、木々の下は暗い。
そこに数名のカッサリア人が待っていた。
護衛が二人。従者が一人。馬が三頭。
使節団と呼ぶにはあまりに少ないが、半包囲下で大人数が動けば、それだけで目立つ。これが限界だった。
「アルマン殿」
護衛の一人が低く呼ぶ。
「戻られたか」
「ああ」
アルマンは短く息を吐いた。
「目的は果たした。すぐに離れる」
その言葉に、仲間たちの表情がわずかに緩む。しかし、その安堵は長く続かなかった。
林の奥で、枝が折れる音がした。
護衛が振り向くより早く、暗がりの中から複数の兵が姿を現す。さらに逃げ道を塞ぐように、左右からも人影が広がっていく。
オーランジュ兵だった。
「動くな」
低い声が飛び、剣と槍の穂先が闇の中で鈍く光る。
護衛が反射的に剣へ手を伸ばしかけたが、アルマンはそれを片手で制した。
数が違いすぎる。ここで斬り合いになれば、生きては戻れない。
アルマンは一歩前へ出た。
「下がれ。我らはカッサリア王国の正式な使者である」
声は震えず朗々と響く。
「ここはジルニッツ王国領内である。加えて、オーランジュとカッサリアは交戦状態にない。ゆえに諸国の慣例に照らすならば、このような拘束は不当である。ただちに道を開けられたい」
兵たちは顔を見合わせた。
これは、ただの不審者捕縛では済まない話である。とはいえ、逃がす気もなかった。
「武器を捨てろ」
「我らは使者だ」
「ならば、なおさら妙な真似をするな」
槍兵が一歩近づく。
アルマンは唇を結び、護衛たちへ頷いた。剣が地面へ置かれ、従者も荷を下ろした。
こうしてカッサリアの使者一行は、抵抗することなくオーランジュ兵に拘束され、その報告はほどなくハインツのもとへ届けられた。
王都北西に置かれたオーランジュ軍の司令部。
仮設天幕の中で、ハインツは地図を見下ろしていた。夜でも湿気は抜けきらず、燭台の火がゆらゆらと揺れている。
「カッサリアの使者一行を捕らえただと?」
報告を聞いたハインツは、ゆっくりと顔を上げた。
「は。王都南東の林で押さえました。代表者は正式な使者であると主張しております」
傍らにいたマティアスの目が細くなる。
「カッサリア……」
ハインツは地図へ視線を落とした。
ジルニッツ王妃コルネリア。
その伯母は、カッサリア王妃として嫁いでいたはず。
ならば、王家同士の縁はある。
王都は籠城している。
外から援軍が来なければ、籠城は延命に過ぎない。だがもし、その援軍の目があるなら――
ハインツは短く笑った。
「代表者だけを連れてこい」
「ほかの者は」
「逃がすな。だが、乱暴はするな」
兵が一礼して出ていく。
マティアスが低く言う。
「カッサリアが動きますか」
「動くつもりなのだろうな」
ハインツはあっさり答えた。
「少なくとも、ジルニッツはそう信じるだけのものを受け取ったのだろう」
「では、使者は城内から出てきたと」
「それを本人が認めるかどうかは別だ」
ハインツは地図の端を指で叩いた。
「だが認めぬなら、こちらもその建前に乗ればよい」
やがて、アルマンは司令部の天幕へ連れてこられた。
衣は泥に汚れ、袖には草の葉がついている。それでも背筋は伸びていた。不当な拘束に怒りと不安はあるはずだが、少なくとも表面には出していない。
ハインツは卓の向こう側からその姿を眺めて言った。
「カッサリアの使者だそうだな」
「その通りです」
アルマンは礼を失わぬ程度に頭を下げる。
「私はカッサリア王国、外務書記官のアルマン。王命を帯びた正式な使者であります」
「こんな夜更けに、戦場近くでか」
「我らはアルバトフ公国より帰国の途上にありました。不運にも貴軍の哨戒に遭遇しただけです」
「ジルニッツとは接触していない、と」
「していません」
即答だった。
ハインツは少しも表情を変えない。
「ザッテルハイムにも入っていない」
「もちろんです」
「この包囲下で、ただ偶然この近くを通っただけか」
「その通りです」
天幕の中に短い沈黙が落ちる。
誰も信じていない。けれど、誰もそれを口にはしない。
アルマンは続けた。
「そもそも、カッサリアとオーランジュは交戦状態にありません。諸国の慣例に照らしても、正式な使者を拘束することは不当です。使節として相応の礼遇を求めます」
マティアスがわずかに眉を動かし、ハインツはしばらくアルマンを見ていた。
そして、ふっと笑う。
「なるほど」
その声は意外なほど穏やかだった。
「カッサリアの正式な使者であり、ジルニッツとは接触していない。貴殿はそう言うのだな」
「事実です」
「ならば、そのように扱おう」
アルマンの目が、ほんのわずかに動いた。
ハインツは部下へ視線を送る。
「拘束を解き、水を出せ。馬の用意もしろ」
「閣下」
兵が戸惑ったように声を漏らす。
「聞こえなかったか」
「はっ」
兵が慌てて動く。
ハインツはアルマンへ向き直った。
「不当な拘束であったなら詫びねばなるまい。カッサリアと我が国は、まだ交戦しておらん。使者であると言うなら、そのように遇するべきであろう」
丁重な言葉だった。
だからこそ、アルマンの背に冷たいものが走った。
「ご理解に感謝いたします」
それでも彼は表情を崩さない。
「我らは速やかにこの地を離れ、祖国へ戻りたく存じます」
「望むなら国境近くまで護衛をつけよう」
「そこまでのお心遣いには及びません」
「そうか」
ハインツは笑みを消さずに頷いた。
「では、出立の準備が整い次第、発つがよい」
話はそれで終わったかに見えた。
アルマンが一礼し、天幕を出ようとする。その背へ、ハインツが声をかけた。
「使者殿よ。ひとつ尋ねてもよいか」
アルマンは足を止め振り返った。
「なんでしょう」
「オーランジュ軍にはジルニッツの元勇者がいる。そんな噂を、どこかで耳にしたことはないか」
アルマンの表情は動かない。しかし、天幕の空気がわずかに変わった。
「……戦場には、さまざまな噂が流れるものです」
「では、貴殿はどう思う」
ハインツが重ねた。
「その噂を、信じるか」
アルマンはわずかに目を伏せた。
「私には、わかりかねます」
肯定ではない。
否定でもない。
使者として、それ以上踏み込まぬための答えだった。
ハインツは薄く笑った。
「そうか」
そして、静かに告げる。
「では、教えてやろう。――それは事実だ」
アルマンの指先がほんのわずかに動いた。
「戦場で勇者エルヴァンの名が出た。それだけで、ジルニッツの兵は崩れた」
ハインツはそこで言葉を切る。
「カッサリア王へ報告する機会があるならば、それも添えておくがいい」
アルマンは沈黙した。
一瞬だけ、目の奥に計算が走ったが、それでも彼は最後まで使者の顔を崩さなかった。
「承りました、と申し上げる立場にはございません」
「それでよい」
ハインツはあっさり言った。
「私はただ、貴殿に事実を告げただけだ。それ以上の意味はない」
アルマンは深く一礼した。
「では、失礼いたします」
そう言って天幕を出ていく。
その背中は真っ直ぐだった。しかし、彼の胸の中になにが落ちたのかは、もう本人にも無視できないはずだった。
しばらくして、カッサリアの使者一行は解放された。
馬が返され、水が渡され、最低限の食料も与えられた。オーランジュ兵は彼らを追わず、ただ見送った。
闇の中へ去っていく馬影を、マティアスが黙って見ていた。
そして言う。
「このまま行かせるのですか? もし本当にカッサリアが動けば、我らは挟撃されます」
「わかっている」
ハインツは迷いなく答えた。
「ここで捕らえれば、カッサリアに口実を与えることになる。殺せばなお悪い。自国の使者がオーランジュに害されたとなれば、連中は堂々と兵を出せるからな」
「では、あの情報は」
「信じるかどうかなど、どうでもよい」
言いながらハインツは、遠くの王都へ視線を向けた。
ザッテルハイムの城壁は夜の中に黒く沈み、その内側には援軍が来ると信じている者たちがいる。
だが、その援軍を出す側に意図して別の話を聞かせた。
「勇者の名は、ジルニッツ軍を崩した」
ハインツは言う。
「それを聞いてカッサリアがなにも考えぬはずがない。本当に勇者なのか。ならば、なぜジルニッツを敵に回したのか。そんな相手に兵を出してよいのか。迷い、議論になればそれで十分だ」
「遅れが出ればいい、ということですか」
「ああ」
短く答える。
「本国からの増援が着くまで、あとひと月。敵援軍が来る前に、こちらの手が揃えばそれでいい」
マティアスは黙って頷き、ハインツはなお城壁を見ていた。
ジルニッツは援軍を信じて耐えている。
カッサリアは勇者の名を聞いて迷うだろう。
その間に、オーランジュの増援は近づいてくる。
王都の中に灯った希望はまだ消えていない。
けれどその外側から、静かに毒は回り始めていた。




